科学の世界でわからないところを突き詰めていくと、宗教や哲学の世界になっていくような気がしてならない。
あまりにもスケールが大きいブラックホールという存在。時空間という、そもそもあるのかないのかさえ超越した存在。そこに答えを見出すのは、可能なのか。
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そんなことを考えていたが、そもそもそこに答えを出すこともまた、違うのではないかと思えてきている。せいぜい、その時点での暫定解が限界だろう。
謎を謎のままに、それを突き止めようとあれやこれやと頑張る中で、人類全体としての叡智が進化していけば、それでいいじゃないか。むしろわからないままでいい、と。
わからないことをわからないままで享受できるか。それを通り越して、あいまいなものをあいまいなまま愛でられるか。
30代に入ってまだ2年かそこらだが、あと8年くらい、その意識を目指して諸々頑張りたいと思う。そんな端緒になりそうな一冊、今週も読み進めていこう。
- 12月4日(月) 圧倒的存在感の無
- 12月5日(火) 真の二次元とは何か
- 12月6日(水) 宇宙の死とは何か
- 12月7日(木) 無限なる宇宙
- 12月8日(金) 科学者としての終わり
- 12月9日(土) 時を超越した存在がいると起こるあれこれ
- 12月10日(日) What is Time?
12月4日(月) 圧倒的存在感の無
ブラックホールに吸い込まれるという表現に違和感を唱える内容だったが、言われてみれば確かに、という問いだ。
僕らは地球に吸い寄せられるとか吸い込まれるとか、そういう言い方や解釈をあまりしない。
しかしブラックホールとは、何もないのではなく、とてつもなく高密度ななにかがあるということだ。穴に落ちるのとは、仕組みがまるで異なる。
時空間をねじ曲げて、光すら逃さないほどの力を持ちながら、視認さえできない存在。
ブラックホールはそれ自体が神性を帯びた、規格外の存在。
そのことを改めて思い知った。
12月5日(火) 真の二次元とは何か
二次元と三次元は、漠然としか区別できていない。特に、意外と二次元を他人に説明するのは、なかなかに骨が折れる。
例えばサイコロを三次元の例に、そして折り紙を二次元の例に出せば、伝わりはする。しかし、ときに悪魔の質問も飛んでくる。
「折り紙も横からすごく拡大して見れば、ちょっとは高さがあるから三次元じゃね?」と。これは禅問答なのか、屁理屈なのか、鋭い洞察なのか。
そもそも原子のモデルが地球儀のように立体である手前、本当の二次元は数学の抽象世界の中以外にあるのかと思わされる。
こういうのを言葉にしようと思っても、まったく固まってこない。僕の中で、すごくあいまいなままだ。いつか言葉になる日は来るのだろうか。
12月6日(水) 宇宙の死とは何か
宇宙の終わりを考えたことは、一度や二度ではないと思う。しかし宇宙の始まりや果てを考えるのと同様に、これもまた、手触り感は皆無である。
可能性の一つは、宇宙がやがて縮小に転じ、またある一点にまで凝縮されるというのがそうらしい。
ちなみにこれは同時に新たなビッグバンの始まりとなるため、ある意味宇宙は無限に続くことになる。
もう一つは今後も膨張し続けて、やがて宇宙全体がとてつもなく冷えてしまい、完全に凍りに閉ざされるなんてモデルもあるそうだ。
現時点では宇宙の膨張は加速し続けており、まだどちらの可能性も、第三者の可能性も、無数に残されているという。
諸行無常の最終形態みたいな話であり、一歩間違えればすぐにペシミズムに転じそうな、そんな話に聞こえてくる。
12月7日(木) 無限なる宇宙
ビッグクランチによって極限まで圧縮された宇宙が再び急激に拡大する一連の流れを、ビッグバウンスと呼ぶらしい。
これはつまりビッグバンと同じように聞こえるのだが、この理論だと、僕らが今いる宇宙が【最初】という保証はどこにもなくなる。
ビッグバンの前には何があったか、ビッグバンがあったのさ。
もはやとんちとしか思えない理論ではあるし、ではさらにその前はどうだったかを考えれば無限ループに入るという穴もある。
どの分野も、行きすぎれば哲学か宗教なのだろうか。思考放棄にも思えるが、そんなことを考えている。
12月8日(金) 科学者としての終わり
科学者として現役であることについて、筆者の面白い私見を読めた。
知っていることに満足し、問いの中に自分を置かなくなったとき、科学をするものとしては潮時だろう、とのことだ。これ自体、平易な文体ゆえ、すごく刺さる。
知っていることではなく、今は何を知らなくて、何を問うているかを語れる人。成長できる人のマインドがうかがえてくる。
僕は今、人生で一番、「学ぶこと」が楽しい。それは、「知らないこと」をポジティブに、自然と受け止められるようになったからだと考えている。
それが科学をする人にとって理想的な思考だと分かったことは、僕にとってすごく安心感を与えてくれた。
過去や知っていることばかりを語り始めたら終わり。改めて胸に刻んでおくことにする。
12月9日(土) 時を超越した存在がいると起こるあれこれ
時間があると仮定すると出てくるバグが、神のポジションである。神といえど僕らと同じ時間軸を共有しているのか、それとも、そうでないのか。
仮に時間軸の外にいるのなら、神は僕らが過去や現在、未来と定義しているものすべてが、それこそ一本の帯のように見えているということだろうか。
それはつまり、決定論に他ならない。未来は既に決まっていて、神はその結論を知った状態で僕らの営みに関与しているとするなら、なんか悲観的な感想を持つ。
とはいえ、時間軸を共有するなら、それは神の力として少し弱い印象も持つ。どうしてもどこかにバグが出る考え方。答えはあるのだろうか。
12月10日(日) What is Time?
時の流れとは、あるのか、ないのか。もはや哲学だが、物理や数学を巻き込んだ、極めて根源的な問いなのだという。
僕らは時計をみて、時を知る。しかしそれは相対的なもので、例えば光速に近い速さで動けば、その辺りは狂ってくる。
ある科学者に至っては、時間を考えるのはナンセンスな話だと割り切っている程だ。ただしそれは、僕にはどうも寂しい話に聞こえる。
僕らが「時間」や「タイム」と呼ぶものは、物理や数学のそれとは分けて思考した方が良いのかもしれない。
次のチャプターが「意識」であることから、そんなことを考えている。
では今週はこの辺で。