突然なんだという話だが、色々な学びに関する本を読んでいると、学校行事は本当によくできていると、つくづく思う。学生だった頃には気付かなかった観点だ。
ただ、学校は「百害あって一利なし」という意見もある。確かに、不登校の子どもの数は増加の一途をたどる等、学校というコミュニティの意義が問われているとも感じる。
不登校児童生徒数が過去最多に 文科省調べ | ニュース 2022年 10月 | 先端教育オンライン
持論だが、これは不登校の生徒自体が増えたというより、学校という場所は嫌なら属さなくてもいい、という価値観が社会に根付いてきている証拠だと思う。
居場所は他のところにもある。嫌なら行かなくてもいい。そのことはやはり、インターネットの登場以来、特に若年層の間で広く受け入れられた文化だとも思えてくる。
その一方で、僕は学校で行われる行事の設計は、本当に見事で、緻密であると驚かされる。なぜなら、深い学びそのものが、完全に仕組みとしてビルドされているためだ。
特に強く思うのは、文化祭と運動会の存在だ。今日はそれらの何を見事だと思うのか、それについて書いていく。
表現を学ぶ。表現を観賞する。動作を通じて、自分の無意識を観察する。
文化祭を堅苦しく考えるなら、それは歌や芸術、出し物といった作品を通じて、内面や思考を形にする場である。
それは自分自身の内側にあるものを具体化し展示すると同時に、他者のそれに触れる場でもある。それは、本当に素晴らしい経験だ。
自分は何を美しいと思うか。何を描きたいと思うか。現出したものは想いをちゃんと表現できているか。作品を作ることで、そんな無意識下の部分に触れることができる。
一方、友人は何を題材に選んだか。そこに込められた意図は何か。共感できる部分はあるか。作品に触れることで、表面からは見えない”その人”をも感じられるのだ。
絵や詩、出し物、屋台、合唱曲、粘土細工。そこに込められた哲学を読み取る場。今なら正直面倒なだけだった文化祭に、違う目線を持って参加できそうである。
更に、運動会も優れた学びの場だと、今なら思える。学生の頃は運動音痴だった故、それを十把一絡げに白日の下へ晒す、恥をかくイベントとしか考えていなかったが・・。
例えば、運動会では学年の出し物として、特に十分な説明を為されぬまま、組体操やダンスを覚えさせられることがある。
当然ある程度の飲み込みの良さが求められるが、今までの自分に搭載されていない動きやリズム、流れを覚えるためには、深い観察が自動的に求められてくる。
つまり、未知の動きの練習を通じて、自分自身を観察するいい機会になるということだ。”意識的に”動作を観察し、表現し、修正する。まさに”学び”だ。
子供の頃から慣れ親しんだスポーツや楽器は、そこに至るまでのプロセスがほぼ全て、潜在意識に行ってしまっている。
だから、「なんとなく、こう」という言い方でしか説明できないし、逆に人に教えようと思うと、色々狂うことがある。言語化がされていないためだ。
しかし、一定以上の言葉を習得した後に練習するとなれば、プロセスが逆となる。他者の言葉や仮説・検証を基に、少しずつ潜在意識に落とし込んでいくものだ。
体育祭の謎の練習を通じて、僕らはこの深い学びの方法を学んでいたのだ。そう考えると、当時は嫌いでしかなかったイベントの別の側面が、浮き彫りとなってくる。
文化祭や運動会といった学校行事には、言葉にすると極めて難解な”学び”が、本当に自然な形で組み込まれている。それが学校行事の偉大さだと、今なら感じる。
佐渡島庸平氏も著書で、「学校行事をベースにコミュニティのイベントを設計すれば、大体外さない」と言っていた。
幾十年にもわたる教員と生徒たちの経験値の結晶が、こういった学校行事にはいくつも詰まっている。そう思うと、感動さえ覚える。
ということで、ある意味完全に独り事みたいなものだったけど、今日はこの辺で。