精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【英文読書ルーティン日記156】"THE GREAT UNKNOWN"読書感想ブログ19 ~頭蓋骨の中の宇宙~

最近、佐渡島庸平氏の受け売りなのだが、「わかろう」とあることを意識的に止めつつある。

 

もちろん、いわゆるテストの答えをわかろうとはするが、全体的にそうすべきだは考えていない。わからないことを糧に思考して、理解し、また問うのを繰り返したい。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

32歳になった今、僕が心底好きなことが段々はっきりとわかりつつある。僕は学び続けたいのだ。そのためには、わかった、知れたという感覚は、学問を邪魔してしまう。

 

世の中には無限大の問いが隠されている。だからこそ心が躍るのと同時に、人生はそれを理解するにはあまりにも短いことに、慄然とする気持ちもある。

 

意識の世界に上ってこない「未知」を徹底的に問い直す。本書はそのためのすごく良い好機となっている。ということで今週も、読んでいこう。

 

 

12月11日(月) What am I?

 

仏教は、確固とした、永久不変たる”自我”の存在を否定する。これはペシミズムでもなんでもなく、真理を説いたものとしてよく語られる。

 

例えば雲を見ていても、その構成物質や形状、位置は細かく変わり続けている。大局的に見れば同じでも、集中して観察すれば、不変なものなどないことに気づくのだ。

 

それなのに、ありもしない変わらない何かとしての自己を探し求めるから、苦しみが生まれる。今のところはそんな風に解釈しているところだ。

 

ところでデカルトは、「我思う、故に我あり」という発言を残している。確かに万物は流転するが、意識を持つ我が存在していることは確実だ、みたいな意味だろうか。

 

私とは何なのか。意識のことを指すのだろうか。では意識とは何か。人間ぽさのことだあろうか。ではChatGPTは、コンピュータよりも、既に人間に近いのだろうか。

 

ある意味最も近い存在である「わたし」もまた、偉大なる未知の一つである。よく忘れられがちになるが、まさにその通りだと思う。

 

12月12日(火) What makes me me?


「What makes me me?」―これは今日読んだ項に書いてあったフレーズなのだが、なぜだかすごく心に残っている。訳すと、「何が私を私たらしめているか」だろうか。

 

つくづく思うのだが、僕とは確固たる何かではなく、やはり数多の縁によって結ばれたネットワークによって、浮き上がっている何かだと感じる。

 

点を繋げば何かしらの動物が浮かび上がってくる、あの児童向けのパズルがイメージに近い。繋ぐ点が変われば、また違う像が浮かんでくるのと同じだ。

 

ただ同時に、僕らは肉体を隔てた、別個の存在同士という印象も拭えない。例えば、僕が見ている「赤」と、あなたが見ている「赤」が同じという保証はどこにもない。

 

そしてそれは、確認しようもない。言葉にして伝えあうことはできるが、その受け取り方まではコントロールできない。

 

究極的に言えば、僕らはわかり合うことなどあり得ないのではないか。未知ゆえに、ちょっと悲観的な帰結になるのもまた、興味深い話だと思うけど。

 

12月13日(水) Where am I?


例えば足の爪を切った後、「これは俺だったものか」と感慨に浸ることは無い。基本、分割していった先に、「わたし」を思うことは無いはずだ。

 

もちろんとある詩人みたいに、糖尿病で壊死して切断するしかなくなった足に人格を見出し、感謝の手紙を書く人もいる。だがそれは稀有だろう。

 

切断された足は、僕なのか?切断された腕は、僕なのか?では、取り出した骨は、僕なのか?―これを問うていくと、あることに気付く。

 

そのどこにも、僕は僕を見出さない。例えば僕は、両目の裏辺りに居るのだろうか。そうとも思わない。では、最初の問いに戻る。僕はどこにいるのだろうか

 

どんどん話が深くなってきた。僕の大好物だ。じっくり浸りたいと思う。

 

12月14日(木) Which is me?

 

新たな洞察を得るため、筆者は脳の献体に直接触れてみたという。提供された89歳の男性の脳を手に取った際、「彼はどこにいったのだろう」と筆者は感じたそうだ。

 

もし脳こそが「ぼくら」であるなら、手にした瞬間「彼はここにいる」はずだ。しかし、その感想は持たなかったという。

 

そもそも脳の機能は、分担制だとされる。右脳があり、左脳があり、更に細かい根幹機能に分かれ、計算・感情・情動・言語などを司る。

 

仮に脳を二つに分けたとしよう。どっちが僕なのだろうか。それとも、それ自体が意味のない問いなのだろうか。

 

確固たる自我や実体などなく、あらゆる縁で繋がった結果、たまたまそこに現出しているだけ。意識もまた、そうなのだろうか。

 

僕らはたまたま、ここにあるだけ。仏教の「空」という概念の鋭さが、科学の点からも浮き彫りとなる気がする。

 

12月15日(金) How many "me" are there in a brain?

 

普段意識することは無いが、無意識下で行われる動作を考えると、わたしを司る意識は本当に一つなのか、確かに疑問に思う。

 

例えば膝蓋腱反射がそうだ。膝を小槌で叩くと、ぴょんと膝が伸びる。このとき僕の意識は、「伸びろ!」なんて命令を一切発していないはずなのに、だ。

 

実際、ブラックボックスの状態で、箱の中に入っているアイテムの数を数えるゲームを行うと、右手でやるか、左手でやるかで、その精度に結構な差が出るらしいのだ。

 

わたしとは何か、以上に、わたしは何人居るのかを問うのも、一つ示唆に富むヒントになるかもしれない。そう思った。

 

12月16日(土) Am I  clusters of me?


脳を紐解いていくと、矛盾するような謎がどんどん増えるという。

 

例えば右脳と左脳で機能が異なるとは言われるが、手術等で片方の機能が低下すると、もう片方がそれを補うようになるそうだ。

 

言語を司る部分と、計算を司る部分が統合される。健常の時には為されない機能が組み込まれているというのは、脳がCPUに例えられるのも納得のステータスである。

 

だから改めて疑問に思う。私とは、集合体なのか?それとも、分断された個のどれかが本体で、それ以外はかりそめなのだろうか

 

このテーマについては、「私とは何か」という本で、かなり詳細に、そして深く考察がされている。僕ももう一度、読み直してみようと思った。

12月17日(日) What is brain?


脳の構造を最初に覗き見た人は、そこに何を感じたのだろう。細胞を拡大して、拡大して、拡大していくと、その先に広がっていたのは回路だった。

 

無数の神経細胞が接続された、網目状の臓器。それこそが脳の姿である、と。しかし、脳を見れているということは、その持ち主は既に息絶えているということだ。

 

すなわち、生きた脳がどう働くかを見た人は、脳の研究の黎明期には誰もいないということになる。

 

しかしそれも時間の問題だ。テクノロジーの進化は、生きた人間の脳の働きを可視化することに成功したのだ。脳の研究は、そこから飛躍的に進歩することになるのだった。

 

では今週はこの辺で。

 

 

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