最近、佐渡島庸平氏の受け売りなのだが、「わかろう」とあることを意識的に止めつつある。
もちろん、いわゆるテストの答えをわかろうとはするが、全体的にそうすべきだは考えていない。わからないことを糧に思考して、理解し、また問うのを繰り返したい。
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32歳になった今、僕が心底好きなことが段々はっきりとわかりつつある。僕は学び続けたいのだ。そのためには、わかった、知れたという感覚は、学問を邪魔してしまう。
世の中には無限大の問いが隠されている。だからこそ心が躍るのと同時に、人生はそれを理解するにはあまりにも短いことに、慄然とする気持ちもある。
意識の世界に上ってこない「未知」を徹底的に問い直す。本書はそのためのすごく良い好機となっている。ということで今週も、読んでいこう。
- 12月11日(月) What am I?
- 12月12日(火) What makes me me?
- 12月13日(水) Where am I?
- 12月14日(木) Which is me?
- 12月15日(金) How many "me" are there in a brain?
- 12月16日(土) Am I clusters of me?
- 12月17日(日) What is brain?
12月11日(月) What am I?
仏教は、確固とした、永久不変たる”自我”の存在を否定する。これはペシミズムでもなんでもなく、真理を説いたものとしてよく語られる。
例えば雲を見ていても、その構成物質や形状、位置は細かく変わり続けている。大局的に見れば同じでも、集中して観察すれば、不変なものなどないことに気づくのだ。
それなのに、ありもしない変わらない何かとしての自己を探し求めるから、苦しみが生まれる。今のところはそんな風に解釈しているところだ。
ところでデカルトは、「我思う、故に我あり」という発言を残している。確かに万物は流転するが、意識を持つ我が存在していることは確実だ、みたいな意味だろうか。
私とは何なのか。意識のことを指すのだろうか。では意識とは何か。人間ぽさのことだあろうか。ではChatGPTは、コンピュータよりも、既に人間に近いのだろうか。
ある意味最も近い存在である「わたし」もまた、偉大なる未知の一つである。よく忘れられがちになるが、まさにその通りだと思う。
12月12日(火) What makes me me?
「What makes me me?」―これは今日読んだ項に書いてあったフレーズなのだが、なぜだかすごく心に残っている。訳すと、「何が私を私たらしめているか」だろうか。
つくづく思うのだが、僕とは確固たる何かではなく、やはり数多の縁によって結ばれたネットワークによって、浮き上がっている何かだと感じる。
点を繋げば何かしらの動物が浮かび上がってくる、あの児童向けのパズルがイメージに近い。繋ぐ点が変われば、また違う像が浮かんでくるのと同じだ。
ただ同時に、僕らは肉体を隔てた、別個の存在同士という印象も拭えない。例えば、僕が見ている「赤」と、あなたが見ている「赤」が同じという保証はどこにもない。
そしてそれは、確認しようもない。言葉にして伝えあうことはできるが、その受け取り方まではコントロールできない。
究極的に言えば、僕らはわかり合うことなどあり得ないのではないか。未知ゆえに、ちょっと悲観的な帰結になるのもまた、興味深い話だと思うけど。
12月13日(水) Where am I?
例えば足の爪を切った後、「これは俺だったものか」と感慨に浸ることは無い。基本、分割していった先に、「わたし」を思うことは無いはずだ。
もちろんとある詩人みたいに、糖尿病で壊死して切断するしかなくなった足に人格を見出し、感謝の手紙を書く人もいる。だがそれは稀有だろう。
切断された足は、僕なのか?切断された腕は、僕なのか?では、取り出した骨は、僕なのか?―これを問うていくと、あることに気付く。
そのどこにも、僕は僕を見出さない。例えば僕は、両目の裏辺りに居るのだろうか。そうとも思わない。では、最初の問いに戻る。僕はどこにいるのだろうか?
どんどん話が深くなってきた。僕の大好物だ。じっくり浸りたいと思う。
12月14日(木) Which is me?
新たな洞察を得るため、筆者は脳の献体に直接触れてみたという。提供された89歳の男性の脳を手に取った際、「彼はどこにいったのだろう」と筆者は感じたそうだ。
もし脳こそが「ぼくら」であるなら、手にした瞬間「彼はここにいる」はずだ。しかし、その感想は持たなかったという。
そもそも脳の機能は、分担制だとされる。右脳があり、左脳があり、更に細かい根幹機能に分かれ、計算・感情・情動・言語などを司る。
仮に脳を二つに分けたとしよう。どっちが僕なのだろうか。それとも、それ自体が意味のない問いなのだろうか。
確固たる自我や実体などなく、あらゆる縁で繋がった結果、たまたまそこに現出しているだけ。意識もまた、そうなのだろうか。
僕らはたまたま、ここにあるだけ。仏教の「空」という概念の鋭さが、科学の点からも浮き彫りとなる気がする。
12月15日(金) How many "me" are there in a brain?
普段意識することは無いが、無意識下で行われる動作を考えると、わたしを司る意識は本当に一つなのか、確かに疑問に思う。
例えば膝蓋腱反射がそうだ。膝を小槌で叩くと、ぴょんと膝が伸びる。このとき僕の意識は、「伸びろ!」なんて命令を一切発していないはずなのに、だ。
実際、ブラックボックスの状態で、箱の中に入っているアイテムの数を数えるゲームを行うと、右手でやるか、左手でやるかで、その精度に結構な差が出るらしいのだ。
わたしとは何か、以上に、わたしは何人居るのかを問うのも、一つ示唆に富むヒントになるかもしれない。そう思った。
12月16日(土) Am I clusters of me?
脳を紐解いていくと、矛盾するような謎がどんどん増えるという。
例えば右脳と左脳で機能が異なるとは言われるが、手術等で片方の機能が低下すると、もう片方がそれを補うようになるそうだ。
言語を司る部分と、計算を司る部分が統合される。健常の時には為されない機能が組み込まれているというのは、脳がCPUに例えられるのも納得のステータスである。
だから改めて疑問に思う。私とは、集合体なのか?それとも、分断された個のどれかが本体で、それ以外はかりそめなのだろうか?
このテーマについては、「私とは何か」という本で、かなり詳細に、そして深く考察がされている。僕ももう一度、読み直してみようと思った。
12月17日(日) What is brain?
脳の構造を最初に覗き見た人は、そこに何を感じたのだろう。細胞を拡大して、拡大して、拡大していくと、その先に広がっていたのは回路だった。
無数の神経細胞が接続された、網目状の臓器。それこそが脳の姿である、と。しかし、脳を見れているということは、その持ち主は既に息絶えているということだ。
すなわち、生きた脳がどう働くかを見た人は、脳の研究の黎明期には誰もいないということになる。
しかしそれも時間の問題だ。テクノロジーの進化は、生きた人間の脳の働きを可視化することに成功したのだ。脳の研究は、そこから飛躍的に進歩することになるのだった。
では今週はこの辺で。