昨日のやり取りで、国語の指導中に生徒から、少し不思議なことを言われた。それは、大体以下の感じの内容だ。
「なんで言葉の知識をそんなに持っているんですか?漢字検定準1級ぐらい持ってましたか?」
これを言われて驚いた。実は僕自身、漢字検定は16歳の時に2級を受験し、見事落ちて以来、一切リトライをしていない。
そういう背景があるので、「自分は言葉に詳しい人と見られているのかもしれない」という発見は、素直に驚きである。
今日はそんな話を書いておこう。
「大人なら誰でも国語はできるじゃん」
僕は自分が特段国語が得意だと意識したことは、あまりない。というのも、30年以上生きていれば、自然と豊富な語彙力は身に着くと感じていたためだ。
だから単に得意なのではなく、普通に暮らしていたらたどり着ける水準という印象を、自分の知識量に持っていた感じだ。
強いて言えば、揚げ足取りに執心な、アンチ活動に勤しむ人々よりは流石に能力があると感じていたが、正直自己評価はその程度である。
しかし振り返ってみれば、確かに僕は言葉への関心を、同級生以上に持っていたかもしれないなと感じる思い出がある。
同級生の多くがかいけつゾロリやデルトラクエストにハマる中、僕は何故か学研かなんかの、「ことわざ」をテーマにした漫画に熱中していた。
中学の頃は、国語の授業や教科書より、資料集と、そこに書かれた詩を読む方がずっと好きだった思い出がある。
ただし高校に入ると、あまりにも大量で無味乾燥な暗記に嫌気がさし、漢字の勉強がとても疎かになってしまった。センター試験の回答も、どこか運ゲーであったものだ。
しかし転機が訪れたのは大学3年の頃だ。この頃読んだ↓の本がきっかけで、読書の有用さと楽しさに目が覚めて、以来本を読むことが日常の1つにまで溶け込んでいる。
いわゆる席に着いたお勉強の時間はだいぶ減ったが、言葉自体に親しむ機会が比べ物にならないほど増えた。
そして最終的に、「観察力の鍛え方」を読んだことが決定打となり、今現在英語も漢字も、まずは辞書の定義を当たることが起点という風に、向き合い方が変わっている。
子どもの頃に辞書で引いた言葉など、学校で強制的にさせられるものを除けば「色即是空」と「ボキャブラリー」くらいだった僕だ。この変化は、振り返れば極めて大きい。
さて。長々と書いてきて、つまり結局、何が言いたいのか。それは、自分が得意だと思っていることを自覚するのは、結構難しいという話だ。
得意なことというのは定義がかなり曖昧で、かつ得意だと人から評されるものほど、本人の中では能力という自覚が無いことが多いのではと、僕は感じている。
例えば、僕はたまに「色んな手段を試すのが得意なんですね」と言われることがあるが、実は意識的にやっているつもりはそんなにない。
むしろ子供の頃は「落ち着きがない」「飽きっぽい」と言われ続けたため、直した方がいいかもとさえ感じていた部分でもあるわけで。
これらを踏まえても、「得意なことはなんですか」という質問の答えは、自分の観察で突き止められるほど簡単ではないのかもしれないとつくづく思わされる。
むしろ、その人の得意な点を誰よりも認識できているのは、その人以外なのかもしれない。他者の意見こそ、自分を正確に映せているのかもしれない。
そう思えば、もっと自分以外の人に自分を見てもらうのもありだなと、そんなことを感じている。まぁ、こっぱずかしいのに違いは無いが。
では今日はこの辺で。