精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「多忙」に翻弄されたときに必要なのは「手放し」ですな。

いよいよ魔の冬季講習が始まる。今年は高校三年生が比較的多い年度なので、共通テスト前のコマ組が求められ、なかなかに逼迫している。

 

更に重ねてシフト調整、面談、予習、教材準備などがドバドバと残り、果ては数時間の作業量が前提の依頼が飛んできて、頭がおかしくなりそうだ。

 

多忙に呑まれると、苛立ちが発生し、そのままそれの強い感情である激怒に転ずることもままある。今のじぶんは、ちょっとそこに突っ込んでいる。

 

こういう感情の激を自覚したらどうすればいいのだろうか。自戒も込めて、僕なりの提案を書いておく。

 

 

自覚して自問して手放す。

 

感情が揺さぶられたときは、まずその状況下にある自分を認めることが起点となる。

 

「俺は怒ってない!」とか、「キレちゃダメだ!」という否定は、沸騰する感情に蓋をしているだけであり、圧が高まれば簡単に吹き飛ぶ。

 

大事なのは、感情をグツグツさせている何かを見つけ、それを鎮火することだ。でなければ永遠に加熱が続く

 

ただし、その「なにか」を言語化することは、そもそもとても難しい。二千年以上前から思索が続いていることを考えても、それは伝わってくる。

 

しかしながら、よくわからないままでも、それを手放すことは割と可能だと感じる。矛盾しているようだが、本当にそう感じる。

 

実を言うと、その「なにか」を言葉にしようと努力すること自体が、心の炎を猛烈な勢いで鎮火してくれると感じているためだ。

 

それは結果、言語化に繋がらなくても、だ。すごく不思議な響きだが、とてもよくある話である。

 

ところで、「手放す」という言葉は、やはりわかるような、わからないような、そんなふわふわとした意味合いをどうしてもそこから感じられる。

 

ということで辞書で引いてみたが、何か全てが物理的な意味合いであり、逆に腹落ち感が弱まったような感覚を抱かされる。

 

1 手に持っていたものを放す。手元から放す。「捕まえた虫を—・す」

2 所有していたものを人手に渡す。「家屋敷を—・す」

3 目をかけていた部下や子供を手元から放す。「娘を—・す」「子飼いの選手を—・す」

4 仕事などを一時中止する。「—・せない仕事がある」

dictionary.goo.ne.jp

 

とはいえ、手に持っていたものを放すというのは、イメージとしてドンピシャだとも思う。「解像度」といった言葉と同じく、本来とは別の意味を持った、ということか。

 

そのときやはり思索のヒントになるのは、いわゆる仏教の問答だ。それによれば本来、手放すとは別に、放り投げるという意味ではないのだという。

 

「放下」という言葉は、入矢義高先生の『禅語辞典』によると、「単に「置く」「下ろす」ということ。ほうり投げることではない。」と解説されています。

 

www.engakuji.or.jp

 

なるほど。自分が感情を乱していることを理解し、その上で例えば呼吸などに意識を向けて一旦距離を置く。これは確かに、”放る”より”下ろす・置く”の方がしっくりくる

 

イライラしているという現在を手放し、もっと心を意識的に中庸へ戻すこと。言葉にすると簡単だが、できなければいつまでも僕の中の苦は成就しっぱなしだ。

 

こんな風に、イライラしていることにイライラするようになると、怒りは永久機関の如くエネルギーを得て、癌細胞の如く増殖し、いずれ暴発する

 

そして怒りは得てして、自分より弱い対象に向けられてしまう。いわば八つ当たりだ。僕で言えばそれは生徒であり、極めて危うい状況だと言える。

 

僕は今、体力のケアは概ねばっちりだと自負している。しかし、ストレスのケアは、まだ不十分というか、現状の忙しさに対し、少し意識が足りないようにも思う。

 

間欠泉の如く噴射させないよう、自愛には注力していきたいと思う。では今日はこの辺で。

 

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