精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「不安」そのものに20分超、徹底して向き合ったある日の記録。 ―そして気づいた、とんでもない”勘違い”。

最近、朝起きるのが憂鬱だ。覚醒するにつれて、過去・現在・未来問わず、ネガティブな感情が、かさぶたを剥いだ後の血の如く、次々と頭の中に湧いてくるからだ。

 

肉体的な疲労が溜まっていることは認める。だが、何か不健全なバグも自分の心に起きていて、そのせいで倍以上の速度で感情が歪んでいるように思えてならない

こういうときは、よく自己観察、内省、振り返りが足りないと言われる。つまり、自分の心にしっかりと向き合っていないから、ストレスは増大していくのだ、と。

 

似たような指摘や考え方は、仏教はもとより、アドラー心理学や、アスリートがその経験則を語る際にもよく出てくるものである。

 

―そういえば、最後にじっくり自分の心と向き合ったのは、いつだろうか。少し思い返してみたが、それは下手すれば1ヶ月以上前になるのかもしれない。

 

最近も死をテーマに記事を書いたことはあるが、それはあくまで究極的な未来の話だ。つまり、今僕は何をその心に抱えているのかについては、特に内省をしていない

 

こういう、いわば孤独感を覚えるときこそ、より深く自己観察を行う好機である。そう前向きに考えて、朝の貴重な20分、徹底して己に向き合った記録を残しておく。

 

 

【型】をもとに不安を見つめる。

闇雲に不安と向き合うのも良いのだが、正直我流で不安と向き合うのは、もう飽きた。過去に何万字を費やしてそれに取り組んだかを考えても、そう感じる。

 

ということで「熟達論」で学んだことをベースに、今回は「遊」の段階を超えて、「型」の段階から思考し、深めてみたい。

 

内省・自己観察のわかり易い型は、やはり仏教だ。そう思って調べてみると、胸の内にある考えを、まずは「貪・瞋・痴」の観点から分類するのがいい、とあった。

 

貪(とん)とは、いわば自分の欲望に起因するストレスだ。自分の思い通りになら”ない”ことに不安感を覚えているなら、それはここに分類される。

 

瞋(じん)とは、怒りの感情が向いているストレスだ。貧と似ているが、こちらは理性の介在が更に少ないという印象である。苛立ちと同義という印象もある。

 

痴(ち)とは、自分が無知ゆえに抱いているストレスだ。これの言語化はなかなか難しいが、「わからない」から不安という場合は、大体これじゃないかと思う。

 

ということでまず分類のためには、今心に巣食っているストレスを言葉にすることが起点となる。取り急ぎ、以下の出来事が、現在の僕の不安の源である。

 

①自分に相談もなくスケジュールを変えられて、その対応を実質丸投げされたために苛立ちを覚えた

 

②低学年の子が自由に振る舞うのを見ているとただただ不安でしかなく、ただのリスクだとしか思えない

 

③自分の焦りと周囲の構えにギャップを感じ、なぜもっと懸命にならないのかと苛立ちを覚えてしまう

 

④金銭的なことに関わるミスをしてしまい、そうなるのは仕方ないとは言え、方々から責められる未来を怖く感じる

 

⑤起用した講師と生徒のマッチングが上手くいくか心配

 

これらの根底には何が巣食っているのか。丁寧に解きほぐしてみよう。まず、貧に該当するストレス源はどれか。

 

思うに、②と④と⑤がそうではないかと思う。

 

②低学年の子が自由に振る舞うのを見ているとただただ不安でしかなく、ただのリスクだとしか思えない

 

③自分の焦りと周囲の構えにギャップを感じ、なぜもっと懸命にならないのかと苛立ちを覚えてしまう

 

⑤起用した講師と生徒のマッチングが上手くいくか心配

 

続いて、感情が逆立っている瞋は、恐らくこれがそうだ。

 

①自分に相談もなくスケジュールを変えられて、その対応を実質丸投げされたために苛立ちを覚えた

 

難しいのが④だ。これは貪瞋痴のいずれにも合っていないというか、自分の内面における葛藤というか、怒られたどうしよう的なチキンな不安に感じられる。

 

無理矢理定義するなら、寛大に許されることを期待しているが、それが叶うかどうか不安という意味で、貧が適当なのかなと思う。

 

ということで再掲する。

 

②低学年の子が自由に振る舞うのを見ているとただただ不安でしかなく、ただのリスクだとしか思えない

 

③自分の焦りと周囲の構えにギャップを感じ、なぜもっと懸命にならないのかと苛立ちを覚えてしまう

 

④金銭的なことに関わるミスをしてしまい、そうなるのは仕方ないとは言え、方々から責められる未来を怖く感じる

 

⑤起用した講師と生徒のマッチングが上手くいくか心配

 

①自分に相談もなくスケジュールを変えられて、その対応を実質丸投げされたために苛立ちを覚えた

 

という感じ。これ自体はただのカテゴライズなので、納得できないとかそういう反発はない。しかし、痴が一つもないとは、どういうことだろうか。

 

冷静に考えれば、痴とは、自分が無知ゆえに生じている苦しみである。つまり、何かしらの比較材料が無いと、そもそも知覚できないものではないか。

 

すなわち、別のメガネを装備してから観察しないと、そもそも認知できないものではないか。そう捉え直し、まずはインプットを挟む方がいいだろうと感じた。

 

そう思って、スマナサーラ長老の言葉を再び読み返してみた。大抵は、有識者の言葉のどこかに自分に刺さる文言があり、痴という夢から覚ましてくれるためだ。

 

その狙いは完璧に刺さった。とてつもなくギクッとした言葉に出会ったの。とても冷や汗ものだが、丸ごと紹介する。

 

しかしどんな口実、言い訳をもってしようとも、それは基本的に、自我を張っているだけなのです。

 

自分の周りや世間への配慮がありません。考えているのは自分のことばかりで、基本的に他者に対する優しさ、思い遣りがな

 

みんなのおかげで生かされているんだという気持ちがないのです。

 

だから、それはエゴであり自我なのです。――自我の正体に人はほとんど気づかず無関心ですが――。

 

dananet.jp

 

さらに読んでいくと、「あああああああああああああ!」と頭を抱えたくなるほど、自分の歪みや小ささを端的にぐりぐりされた言葉に出会った。

 

自分が正しいと思い込んでいるのです。世界は自分の思い通りに動くべきだと思っているのです。だから人から「お前はバカじゃない?」と言われたら腹が立つのです。

 

「バカと言いやがった、この完璧な俺に向かって」と。でも「ああ、そうですか。教えてくれてありがとうございます」。本当はただそれだけの話でしょ。違いますか?

 

機嫌の悪い人から、「お前、バカだよ」と言われたら、「教えてくれてありがとう」と返してみたら如何でしょうか。

 

すると相手の怒りが消えて、こちらの怒りもなくなって、お互いすばらしい笑顔になり、楽しい世界が顕われるのです。

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昔自分が書いた恥ずかしい詩を目の前で音読されるかのごとく、顔が熱い。ヘンな汗が流れてくる。これ以上ない、汗顔の至りだ。

 

僕が内々に閉じ込めた思いを他人が汲み取ってその通りに動いてくれる、考えてくれることを期待して、そうじゃないことにストレスを覚えていたに過ぎない。

 

なんというエゴイズムだろうか。そして、なぜこのことに気付けなかったのだろうか。他人が自分の期待に応えることばかりの観点になっていたことに、ようやく気付けた。

 

僕の自我はストレスに晒されて拗れ、腐り、負のエネルギーで思考さえも変えられていたのだ。悪感情に毒され切った今、僕は本当に小物も小物、ただの俗物に堕している。

 

「では、僕は僕の周りに対し、何ができるだろうか?」という抜苦与楽の気持ちが、まるで抜け落ちていた。それは当然、自分に対しても同じだ。

 

自分で自分を追い詰めるから、より一層ありもしない理想にしがみつき、他者に勝手な期待を押し付けては、満たされない現実にヤキモキする

 

穴があったら入りたい。僕の【痴】の正体が、はっきりと分かった世界は僕のままになるはずだという、子供心まんまの幼稚な希望・期待・我儘が、僕の【痴】だ

 

だ。僕が勝手な世界観を基に世界を眺めるから、そことのギャップに感情が揺さぶられるのだ。ならば最初から、「こうあるべきだ」という理想を、打ち捨てればいい

 

なぜ、子供は静かにじっとできないのか。この問いがそもそも違う。本質として子供はじっとできるものではない。そのうえでどうするかというのが立てるべき問いだ。

 

ここでふと気づいたことがある。ずっと悩んでいたことが解決した瞬間を、人は「霧が晴れる」と表す。実はこれは、すごくイメージとしてぴったりだ。

 

というのも、自分が悩んでることというのは、大体は何かしらのバイアスが自分の意識を捻じ曲げていることに起因する

 

しかし、歪んでいるのを認知することが、そもそも大変難しい。例えば自分の姿勢がいいか悪いか等、そもそも日頃意識の上に出てこないのと似ている。

 

そんな特性もあり、こういったバイアスが解除されるきっかけになるのは、他者からの発言やアドバイス、ふとした気づきなど、自分の外にあることがほとんどだ。

 

それによって、バイアスが解除されれば、文字通り”見えている世界が変わる”。まさに、霧が晴れるという表現その通りだなと思わされる。

 

では、霧が晴れれば何が見える世界はなんなのか。それは、自分の主観やバイアスまみれの理想像などではなく、特に意味付けがなされていない、ありのままの世界だ。

 

世界があって、僕がいる。僕は巨大なネットワークの1つで、万物は流転する。そのことを理解し、世界を眺めなさい、という仏教の教えが、また一つ腑に落ちた。

 

人は疲れてくると、自分の心身を守るため、猜疑心や不安が強くなるとされる。これもまた一つの、本能によるバイアスだ。生存のために必要なものであるのは認める。

 

ただ、原始時代のモードを現代社会に当てはめると、やはりトータルとしてバグが生まれる。ゆえに、逆に自分を追い詰めることに繋がりうるのだ。

 

さっきのはしゃぐ子供の例で言えば、頼むから静かにしてほしいと思ってるときは大体、その子は今まで静かにしたことがほぼ1回もないはずなのだ。

 

すなわち、論理的に考えれば、次もそうだということが容易に想像できる。だが、特に自分からのアプローチも無く、相手が空気を読んで変化することを期待してしまう。

 

だが、まず間違いなく、そうはならない。だからまたイライラする。 その繰り返しだと思う。まさに貪瞋痴の【痴】、ここに極まれりだ。

 

今現在の自分のバイアスに対して【痴】であることが、因果関係でいうところの【因】ではないか。僕が思う暫定解は、ここである。

 

世界は、自分の思った通りになる。頭で考えればそんなわけはないし、その思考が見え透いた相手には、ちゃんと腹を立ててきた僕だ。

 

だが僕もまた、その不健全な毒を心に抱えていた存在なのだ。意識よりも更に深い、いわば末那識のところから立ち上るバグ。気が遠くなるほど強大な相手だ。

 

いわゆる本能や感情とされる部分に理性で挑むのは、やっぱり難易度が高い。それこそ結構な修行を積まねば、近づくことすら不可能ではないかと思う。

 

ただ、今この疲労困憊の状況で自分を追い込むのは無しだ。一旦なんとか駆け抜けて、心身を落ち着けられる環境を手に入れてから、ゆっくりとここに思いを馳せたい。

 

その中でも、無理のない範囲で慈悲喜捨を意識的に自分に注ぎ、ちょっとでも三毒を解毒できればいいなと考えている。

 

では今日はこの辺で。

 

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