この仕事をしておきながら「なんで?」と言われそうだが、僕は子どもが好きじゃない。どちらかと言えば、嫌い寄りである。
僕は自分の子どもが欲しくないのだが、その最たる理由は、同じ屋根の下で暮らすと、ストレスで僕の頭がおかしくなる未来が容易に想像できてしまうためだ。
それもあってか、会社が「幼児向けコンテンツを導入しよう!」と決めた際は、本気で仕事を辞めようかと思うくらい、すごく抵抗があったのを覚えている。
今も正直、幼児向けコンテンツが回っているときはずっと落ち着かないし、精神年齢が低すぎる生徒を相手していると、嫌でも感情が逆撫でされる。
しかし、高校の頃や大学の頃は、ここまで子供に対してささくれ立った感情を抱いていた記憶はない。そして冷静に思えば、まともに言語化しようとしたこともない。
XやYahoo知恵袋でイキる恥ずかしい人たちが嫌いな理由は言語化したのに、こちらの方は内省がまだ不十分であった。丁度いい機会かもしれない。
てことで今回は、”嫌い”をなるべく定型的に分析してみた、そんなログである。
嫌いという基本感情を紐解く。
プルチックの感情の輪にも書いてあるが、【嫌悪】は基本感情の1つであり、つまりより、本能や無意識に刷り込まれた”反応”に近いそれである。
例えば僕はチーズが嫌いなのだが、それはあの臭みを嗅覚・味覚が猛烈に拒否するためであり、ついでに乳製品アレルギーのため、内側からも拒否してしまう。
しかし、それ以上の言語化は難しいし、不可能に近い。本能は言葉にできない領域に仕舞われているからだ。
だから、”嫌い”という解釈は、それ以上深めようがない。むしろ、「どういうところが?」とまずは掘り下げて、そこに「なんで?」を挟む方が建設的だと感じる。
実際、そういう風にして内省を深めている方のブログもあった。僕も、それに倣うこととする。
まずは、この部分に従う。
その人を嫌いだと思った、具体的な事件や言動、といった直接の原因。また、その人を見て苦手だなと思ったことの原因(間接的な原因)。
その人と自分の合わないところ。その人にあって、自分にないところ。その人が存在していることによって、自分がどんな損をしているか。
どうして、彼らと話せないのか。
彼らと接触することで、何をされるのが怖いのか…
など、あらゆる原因や、嫌いな人との苦手な原因を考えていきます。
これについては、思い当たるフシが実は2つある。まず、昔書いた気もするが、うるさい子がいるというクレームは、時折強い感情が乗って、僕に飛んでくることがある。
そして僕は、そのクレームひとつひとつが、どうにもめっちゃ怖い。それはまだ経験値が不足しているせいかもしれないし、気質としてそうなのかもしれない。
しかしそれが恐怖の感情と紐づいており、かつそれを引き起こし得る最たるトリガーが制御が効かない子どもたちの”言動”だとすれば、諸々が全て繋がってくる気がする。
確かに、僕は子どもの言動には時折顔をしかめるが、その一人一人、いわば個人個人そのものに腹を立てたことは、全くと言っていいほど、無い。
では、クレームに繋がりうるから、子どもの言動全てが嫌なのだろうか。そんなに底が浅い話なのだろうか。
そこでさらに取っ掛かりとなるのが、もう1つの心当たりだ。僕は、特に音を中心とする刺激の一部に、全く耐性を持っていない。
怒鳴り声、金切り声、机をバンバン叩く音、壁をドンと叩く音、その全てがそもそも嫌いだ。だから実を言うと、似た嫌悪感は隣人にも抱いている。
クモが嫌いな人がクモを見たときや、集合体恐怖症の人がハスを見たときのそれに、とても似ている気がする。嫌悪の対象には、触れるだけで猛烈に疲れるのが性なのだ。
これら2つを繋げると、何が浮き彫りになるか。単に、そもそも自分が嫌悪感を抱く対象に、密接に繋がっているということに他ならないというのがわかる。
拍子抜けするほどしょうもない結論だが、しかしすごく安心する部分がある。僕は子ども自体を特別に嫌いと感じているわけではない、ということだ。
なにがそれをしているかはどうでもよく、単に結果として生じている言動や事象、音や刺激が、僕の琴線に触れるというそれだけなのだ。
いつか勢い余って感情的に子どもを叱るリスクが、自分には高いと感じていたが、それは少しズレているという風に納得できる。
解像度が上がると、少しは気が楽になる。その一つの好例だと、つくづく思わされる。
無意識に働きかけるのは無理なのか?
それにしても、無意識下にあるもの(末那識(まなしき)と呼ぶらしい)は、どう足掻いてもハックすることは本当に不可能なのだろうか?
もちろん後天的に耐電性や耐熱性を身体に備えると言ったSF的なことは無理だろうが、自分の思考を、嫌悪感を、せめて「普通」に戻すことは不可能なのだろうか。
僕自身、過去にはそういう恐怖や嫌悪を克服できた例は、いくつかある。自分の声を聴くのも嫌いだったが、今は何一つ恥ずかしがることなく、それを聴けるように。
そんな疑問を持ちながら色々調べていると、ある深い言葉に出会った。それは、「薫習(くんじゅう)」だ。
その定義は、以下の通りである。ちなみに阿頼耶識(あらやしき)とは、末那識の更に下層、自分の人生全ての経験値が善悪の区別なく沈んでいる場所、らしい。
ただこの説明はいくつかの宗派でブレがあるのか、僕が読んだ本と少し違うという印象を覚えた。だが細かいことは今は良いので、取り急ぎ説明を引用する。
唯識論には「薫習」という考え方があります。
「衣服に香をたき込めるように、人々のすべての行為が阿頼耶識に浸透する」
頭の中だけでなく、見たこと、聞いたこと、感じたことのすべてが浸み込んでいく。
あなたの心の奥にある無意識の世界に、薫習を重ねていくうちに人生は変わっていきます。
ガンジーの”明日死ぬと思って生きなさい”には後半があります。
~ 永遠に生きると思って学びなさい ~
なんと、心の奥底に浸み入る神秘的な言葉でしょう。命尽きるまで、学びを続けることで無意識のまま薫習されていく。
“学ぶ”とは、自分の足りなさに気づくことです。
創業者の経営理念を現代風にアレンジして毎朝唱和するのもいい。トイレ掃除をする、論語の素読をする、毎朝お経を読んでみるのもいい。
当たり前のようでも、人のためになりそうな、続けられることを実践する…。
すると自分の足りなさに気づき、もっと学びたいという「薫習」の心が宿るでしょう。
自分が足りないことを学びによって発見し、腰を据えてじっくりと、新たな学びを末那識、阿頼耶識に染み込ませていく。
そういえば、かつて嫌いだったものが平気になったとき、必ず僕は「いつの間に?」という感想を覚えた気がする。ここに大きなヒントがあるのではないか。
嫌悪の対象は認識しつつも、意識や環境の工夫で一旦そこへの執着を手放す。その間に自分の器を薫習によって丁寧に広げ、しっかり受け止める土台を築き上げる。
では、どうやればその器を丁寧に広げることができるのだろうか。ここはもう、結果を急がず、じっくりとやるしかない。学び続けるしかない。
短時間で香りが移るようなものは、ただの激臭だ。強すぎる香りで全てが飛び去り、それ自体が嫌悪され、とっととそれごと洗濯されてしまうだろう。
あくまでも、ゆっくり、ゆっくり。ただし、丁寧にじっくりと学び続けること。希望が見えて、柄にもなくワクワクする。
そうだなぁ、手始めにまず、子どもの心理を丁寧に解きほぐした骨太の本でも読んでみようかな。まずはすべての言動に、別に敵意や邪心が無いことを知っておきたいな。
知ることは動揺を鎮める。本当にその通りだと思う。
では今日はこの辺で。