精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

世界を【見る】のではなく、【感じる】つもりで観察すると、すごくしっくりくる。

「熟達論」の【観】の項を読んでいて、「ん?」と思う箇所があった。それは、「俯瞰」について書かれた部分であり、世界の構造の観察の仕方についてである。

 

別の動画で語っていたが、筆者はこの【観】の章が最も書くのに苦戦したらしく、確かに読んでいても、僕も立ち止まって考えないと、理解しきれない部分が多めだ。

だが今回、「言葉による意味づけの前に、感覚を優先する」とか、「情報は目で見るだけでなく、五体すべてで感じ取る」という部分に、何か引っかかるものを感じた。

 

それが何故かはわからないが、ある種直感的に、それこそ理想の【観察】ではないか思えたからだ。少なくとも、僕にとっては。

 

今日はやや無謀ながら、僕なりに【観】を、一意見として言葉にしてみたいと思う。

 

 

"Don't think, feel."の哲学。

 

僕は散歩が趣味なので、天気が悪くない限り、ほぼ毎日20分くらいうろつく。コースこそ決めているが、見える景色は毎度毎度、少し異なって見える。

 

そんな散歩の時間、最近は意識的に、言葉による意味づけを手放すことを心掛けている。例えば電柱を見ても、「電柱」という言葉を頭に浮かべないよう意識するのだ。

 

「世界をありのままに見るべし」と、仏教哲学を読んでいるとよく見かける。だが、その真意は極めて感覚的で、個人個人がそれぞれで腑に落とすしかないのだろう

 

とはいえ、”手放す”ということはかくも難しいのかと、世界を名前分けされた1つ1つで見ている自分に気づく度、意識が遠のくような感覚を抱いてしまう

 

世界とは、フェンス、電柱、アパート、人間、橋、川、コンクリ―ト、草花、排水溝、電線、ビニールハウス、カラス、猫だと言えば、馬鹿だとしか思われないだろう。

 

それらをぐちゃっと統合し、いわば材料1つ1つを取り出してではなく、シチューといった料理名に内包して知覚するように、世界を感受するにはどうすればいいのか。

 

その際にとてつもないヒントだと思ったのが、「情報は目で見るだけでなく、五体すべてで感じ取る」という筆者の言葉であった。

 

例えば「夏祭り」という言葉を聞くと、光景だけがぱっと浮かぶ人と、その光景に祭囃子などの音が付随して頭に浮かぶ人がいる。ちなみに僕は後者だ。

 

そういう人は、実は視覚と聴覚をベースに、世界を”見ている”のかもしれない。実際その観点から内省すると、僕は景観と同時にその場の音や、同行者の声も頭に浮かぶ。

 

人によっては、例えばソースの香りを思い出すこともあるだろう。その人の世界構築には、嗅覚も大きな役割を果たしていることになる。

 

「熟達論」で見かけた問いの中で、すごく面白いものがある。コウモリは超音波を出して空間を把握して飛び回る習性があることは、ご存じの人も多いだろう。

 

ではこの際、コウモリは世界を見る感じなのか、聴いている感じなのか、果たしてどちらなのだろうか。そもそもこれを問うことに意味はあるのだろうか。という具合だ。

 

見るも聞くも同じだとすれば、表現として「感じる」というより、英語で【feel】と表現する方がしっくりくる。

 

そう思った際、頭に浮かんだのは、ブルース・リー「Don’t think, feel.というセリフだ。

ameblo.jp

 

これ自体は「考えるな、感じろ」という意味に訳せて、「頭で考えるんじゃなくて、感覚的に動け!」という意味合いにも思える。だが実際は、そこまで浅くないそうだ。

 

地道な努力や観察、思考といった【think】は大事だ。だが、それに囚われていると、相手や環境を【feel】できなくなる。視野の広さを説いたのがこの言葉ではないか。

 

視野狭窄に陥れば、努力してきたことを出すために本番があることになる。しかし実際は本番のために努力があり、最適な行動をするには、努力への固執は邪魔なだけだ。

 

例えばサッカーの技にはオーバーヘッドキック(シュート)というかっこいいものがある。低い体勢から咄嗟に強打を放つ、ある意味必殺技に近い何かだ。

 

だからそれを必死に練習する。そればかりに打ち込む。すると結果、試合でそれを使いたくて仕方が無くなる。だから強引だろうが、それを放つ。

 

だが所詮、それは場面に応じて切るカードの1つに過ぎない。極めて限定的な場面で120点のカードは確かにそれだろうが、他の圧倒的広範囲では、ろくに機能しないのだ。

 

言葉で考えた世界を見ていると、どうしても反応も近くも遅れてしまうし、努力に引きずられて切るカードを過つことさえある。それでは本末転倒だ。

 

羽生善治氏も著書や対談で説いていたが、「パッと無意識から閃いた手は、大体正しい。そこから論理的に理屈を考えても、そうであることが多い」という。

 

まずは【feel】をしっかりと重視し、そこから何をするかを【think】する。理性と感情のやり取りは、理性が先だと思っていたが、逆の方が適切なのかもしれない。

 

ところでそんな【feel】は、英語でこんな風に意味が説明されている。

 

to experience a particular physical feeling or emotion

身体的な感覚や感情を経験すること

 

経験という定義が面白く思う。そのためには自己観察をしっかり行い、今自分に起きている反応や、入ってくる刺激に、もっと意識的にならなければいけない。

 

世界を言語で認識するのを手放すために、もっと感情や感覚、刺激そのものに敏感であれ。なんと面白いヒントではないかと思わされる。

 

終わりに。

 

今日も散歩に出かけた。のどかな光景を見ながらも、五感を意識的に研ぎ澄ませて、視覚以外の情報に意識を向けてみた。

 

カサカサという音。自分の足音。肌に触れる冷たい風。頭上から降り注ぐ暖かい光。誰かが焚火でもしたのか、少し煙たい香り。

 

それらに意識を向けたとき、「ありのままとはこういう感じか?」というぼんやりした実感を得られたと思えた。言葉を手放すとは、五感の情報に集中することかも。

 

外から入ってきた刺激に僕らはレッテルを貼り、構造としてではなく、バラバラなものとして受信する。それは無意識下で何十年も行われてきたプロセスだ。

 

それを今更かなぐり捨てることは不可能だし、より大切なスキルを失ってしまうのではないか。だから感受の仕方をもっとコントロールできればいいと思うわけで。

 

2024年はもっと五感を研ぎ澄ましていくこと。一つ面白い目標ができたように思える。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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