精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕の中の「べきだ」を”アンラーン”する。

【熟達論】がとても名著だったので、こないだ【アンラーン】という本も買ってみた。そして今朝、それをほぼ読み終わったところである。

 

もちろん再読は必要だが、ここに書かれている教えはやはりすごく深いし、それをヒントにまた一つ、自分のことを振り返るきっかけができたと感じている。

僕が無意識に採用しているクセやパターン、思い込みは何か。それを認識し、意識下に引き上げて言語化し、敢えて手放すことで、新しい成長や変化に繋がる余白を創る。

 

しかし無意識下にあるということは、僕らはそれを自動的に行っているということであり、そもそも自覚自体がとても難しい

 

意識しなければ、自分たちが呼吸していることすら忘れるのと似ている。そして、こういう生理的な行為でも自覚が難しいのに、思考となれば、なおのこと難しい

 

その取っ掛かりとして本書で書かれていたヒントが面白かった。それは、自分の中で「べきだ」と考えている価値観を見つめてみよう、といった内容だった。

 

この部分に、その人の思考のクセが色濃く反映されるためだという。これはすごく興味深い。

 

ということで今日は、その観点から自己観察をしてみたという、そんな記事を書いてみる。

 

 

僕の中の「べきだ」。

 

自分が「べきだ」と思っていることを、どう自覚するか。ここは手探りなのだが、まずはやらないと気持ち悪いことにアンテナを張ってみることにした。

 

例えば歯磨き、髭剃り、朝食。この辺りはやらないと気持ち悪いことに他ならないが、これらは生活習慣であり、価値観とはまた違う気がする。

 

そんなことを考えていると、ある仕事の連絡を機に、一つ引っ掛かるものを閃いた。それは、依頼された仕事へのレスについてだ。

 

僕はどうやら、依頼された仕事は即レス”すべき”だ、自分の1日は作業と授業で詰め込む”べきだ”、といった、クソ真面目な価値観を持っている

 

実際、振られた作業があった際、目の前の仕事を放棄してでもそれをやりたくて仕方なくなる。後回しにしていると、猛烈な気持ち悪さが募ってくるほどだ。

 

とはいえ、全ての作業や依頼が、優先順位を完全に破壊するほどの緊急性を持っているわけが無い。冷静に考えればそんなのは当然だ。だから、自問自答する。

 

そして気づいた。これは根拠も原体験もない、単なる思い込みなのだと。こういう部分にこそ、アンラーンでメスを入れていくのが、このプロセスの基本となるという。

 

これは何も、その思い込み自体を徹底的に否定して捨て去ることではなく、抽象的だが、その思い込みを支える部分に立ち返り、細かく分析する感じである。

 

僕の場合で言えば、どうか。こういうときは素因数分解の第一歩としてひたすら2をぶつけていくのと同じで、そもそも論をガンガン問うていくのが早い。

 

なぜ僕は、そういった即レス狂信者になっているのだろうか?そうすることで何を得ているから、この思考がクセづいてしまっているのか?

 

僕は別に、後回しにしたことで誰かから烈火のごとく、それこそトラウマになるほど叱られたことがあるわけではない。だから、心の傷という意味では、心当たりがない。

 

となれば、何か得ている物があるから、このクセが手放せないのではないか。酒を止められないのは、それによって得ている快の感情が大きいのと似ている。

 

すると、【心をリセットする技術】に書かれていたこととの繋がりが見えた。こうやって日常を作業で圧縮することで、僕は自尊心や重要感を満たしているのではないか?

 

仕事ができるヤツという評価を貰うため、仕事が遅いヤツというラベリングをされないため、そして日々を仕事でいっぱいにして、充足感を得るため・・・・

 

そう思うと、「即レスしないと不安症」の根っこにあるのは、やはり現状の自分を肯定する材料に乏しいところに行きついてしまう。なんか、がっかりする。

 

僕が抱える人間的なバグは、掘り下げれば全てそこに集約していく気がする。結局僕には、自信が無いのだ。ありのままの自分をそのまま慈しむ感覚が、どうしても乏しい。

 

―だから今回は、そこまでアンラーンの思考を及ばせてみる。

 

僕はなぜ、ありのままの自分を慈しむことが難しいのだろうかありのままの自分を慈しまないことで得ている物はなんなのだろうか?

 

そもそも今現在の自分を直視せず、ある意味神格化された、言葉を選ばずに言えば都合のいい妄想上の自分をモノサシにしてしまうのは、一体なぜなのだろうか?

 

―何度も直面してきた、この思考の歪み。一体何度目だよと思われるかもしれないが、起点だけは毎度異なるので、都度有益な発見に至っていると信じることにする。

 

さて。こんな絵空事の自分像が非現実的であることも、時代に即していないということも、理性では理解しているつもりだ。

 

しかしどうやら、潜在意識は別のようだ。僕の理性と潜在意識は、お互いが一切すり合わせることなく、完全に対立しているような状態だと気付いた。

 

いわば、人はいずれ死ぬとは理屈で分かっていても、そのことを素直に自分に当てはめるのが難しいように。そしてこの頑固さは、乱暴に言えば幼稚な思考だと言える。

 

僕の中に在る理性と感情が、全く折衷してこない。水と油のまま、32年も生きてきたという話なら、つまり僕の心の発育は、まだまだ不十分なのではないか。

 

ならば僕がアンラーンしなければいけないのは、二者択一、白と黒、自分が正しい、頑張れば報われるといった、子どもの価値観・基準なのではないか

 

己の幼稚さには、もう一つ思い当たる節がある。自分に対する期待や理想の姿について、そのソースは大体、フィクションの世界の住人なのだ。

 

それはわかり易く漫画やアニメ、ゲームのキャラのこともあるし、実用書に書かれた、成功者とされる人の姿も含む。いずれも一部あるいは全体が、虚構で彩られている。

 

本来それを割引いたり、無理のない範囲で取り入れたりするのが、オトナの思考なのだと思う。だが僕は、その両方が、不十分・・いや、全くできていないらしい。

 

成功者たちは有能で、迅速に連絡に返信し、冷静であり、自信に満ちている。だから結果が出るし、器が大きいと評されるし、高いカリスマ性を醸しているのだ。

 

僕はそうなりたいのだろうか。はっきり言うと、そこまで抜きん出た場所に、あまり興味は無い。それなのになぜ、僕はそこを目指す気持ちが、消えないのだろうか

 

大概の成功した人の姿の内、無理なく自然に諦めたものは山ほどある。プロ野球選手になった自分、東大に進学した自分、モデル級美女と結婚する自分。全てくだらない。

 

だが、それは表面上だけ、もっと言えばニッチな部分だけのようだ。大部分で僕は、実は僕を諦めていない。今はそう納得している。

 

僕の中にいる、純粋で、可能性を信じてやまない、不器用な僕。その子を見つめ、哀れみの眼差しを向けている僕。この対立する2つの軸に、今は思い至っている。

 

ここまで書いて、アドラー心理学における、「普通である勇気」という言葉を思い出した。そしてそれを解説したブログに、思い切り刺さる文言を発見した。

 

自分が優れていることを証明しようとして躍起になる。
そうしないと、自分がその場で必要とされている人間と思えないので不安になる。

 

いつもそんな風に生きているととても疲れてしまいます。

 

そういう行動が行き過ぎると、自分ばかりでなく周りの人まで疲れることにもなってしまいますね。

 

自己承認欲求の強い、痛い人になってしまう。

 

自分が優れていることを証明する必要などなく、あなたはここにあるがままに存在するだけでいいんだよ、ということを感じられるようになると体から力が抜けてリラックスしていられるようになります。

counseling-sinjyuku.jp

 

僕は周りに認めさせたい。何をだろうか。自分が秀でていることにだろうか。それは、何においての話だ?

 

世界はネットワークでできている。個人とは名ばかりで、その人を定義する言葉や観点は無数にある以上、勝ちも負けもただの一面、一過性のものだ。

 

斜面を見て、これは上り坂なのか下り坂なのか考えて、その優劣を議論するくらい愚かだ。そんな愚かなゲームに参加して、何を得られるんだ?

 

お前より英語ができる人は履いて捨てる程いるが、お前より長文が読めない人間も履いて捨てる程いる。

 

お前より顔が良い人間は履いて捨てる程いるが、お前より顔が良い人間の中でお前より腕相撲が弱い人間は履いて捨てる程いる。だが、強い人間も履いて捨てる程いる。

 

今こうしている間に世界のどこかで宝くじを当てている人がいる。お前はその人と比べて、今この瞬間不幸になったのか?負けたのか?

 

そして今こうしている間に、世界のどこかで突然の死を迎えている人がいる。お前はその人と比べて、今この瞬間幸福になったのか?勝ったのか?

 

そうなんだよなぁ。くだらないんだよなぁ。

 

やたら勝ち負けにこだわって謎の議論を吹っ掛けてくるアホは、そのアホが得意とすることを苦手とする別の人に無駄な優越感を抱いてはしゃいでるだけなんだよなぁ。

 

僕が子どものモノサシを持って世界を見る限り、僕は多分こういう不毛なやり取りに巻き込まれて、今後も消耗していくだけ。そう思うと、なんと悲しい話だろう。

 

とはいえ、この瞬間からオトナになることは難しい。子供の心を尊重しつつ、大人としての僕の意見も加えていき、対立から協調へ、この2つの僕を持っていきたい。

 

「べきだ」をアンラーンすると余白が生まれると、先述した本には書いてあった。この余白は新たな学びに繋がると同時に、変化を促すエネルギーにもなる。

 

僕が長年培ってきた価値観はそうそう崩れない。だが、少しずつなら軟化してくるはずだ。そう信じている部分もある。

 

アンラーン。悪くない時間だった。自分の無責任な衣を剥がしまくった先にはいつも、子どもの頃のままの僕が居るようである。

 

では今日はこの辺で。

 

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