精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【無駄に10,000字】連勤術と繁忙期を経て解った、僕自身の根本的なバグ。 ―僕は繭の中で蝶を夢見る蛾の幼虫だ―

まだ先のことを考えるのは少し嫌だが、明日で冬季講習という、ある意味ハチャメチャな繁忙期が終わる。

 

ただし、ハチャメチャな生活が終わるというだけで、共通テストが1月13日に迫っていることから、やはりそれまではフル休みを取れそうにない

 

時間外労働はある種常態的となり、定時の前も後も、なんだかんだで仕事をしないと回らない、というのが続いている状況だ。僕のパフォーマンスは落ち続けているのに。

 

区切りがつくことは、メンタルの支えになると思っていた。しかし世の中は、やはりある程度の流れとパターンに乗って進む。

 

大抵の場合は、山を一つ越えても、もう一つの山があることがわかるだけだ。あの山を越えても、海は見えてこない。その都度、心は猛烈に疲労する。

 

正直、今はもう何もしたくない。仕事は勿論、生産的な何かを一切したくない。人にも会いたくない。ずっと気が済むまで引きこもっていたい。

 

久しぶりだなぁ、このマインド。いつ以来だろう。そうだ、思い出した。適応障害で休職した8年前の日々に似ているんだ。

 

逆にこういうときに自分を救うのは、懇切丁寧な自問自答くらいなものである。それくらいならなんとかなりそうだ。

 

ということで今日は、連勤術と繁忙期を経て解った、僕自身の根本的なバグをしっかりと見つめてみた記録である。

 

 

自分のキャパも適性も無視して働くとこうなる。

 

自分の中にバグを発見したとき、僕は意識的に、同じ経験をした人の記録を読んだり、仏教にそれに関するヒントが無いか探したりする。

 

そしてぼんやりと今は、「自分のキャパも適性も無視して働きづめた結果、疲労困憊している」という仮説を立てている。

 

正直、”本当に”苦手なことは、マジで克服が不可能だ。32年生きてきて、本当に強くそう思う。

 

もちろん克服できた苦手もあることはあるが、実はその全てに、「やればできるやろ」というヘンな自信は持っていた。それが無いものは、逆に言えば無理なのだ。

 

例えば僕は、手書きの文字がとても汚いと言われ続け、そう自負しており、中学2年の頃から字のクオリティが全く上がっていない

 

いわゆる「きれいな字」を僕は書けない。授業内容ではなく黒板の字そのものを注意され続けて頭に来た結果、1年くらいガッツリ練習したが、成長は一つも無かった。

 

嫌いな食べ物を好きになることが無いのと似ている。時の経過で稀にあるが、稀ゆえにインパクトがあるだけで、克服できないことの方が圧倒的多数だし、自然な話だ。

 

努力しても、できるようにならんもんがある。そのときこの悟りに至ったのは、今思えばとても大事な出来事だったように思う。

 

以来僕は、電話(姿が見えない相手と話すのが嫌すぎる)や即行動(準備期間ゼロで突っ込むのは怖すぎる)といった、苦手なものを克服するのを次々と諦めた

 

自分の能力に蓋をしている気分にもなったが、実際にそういうのをすればするほど、心が軽くなったし、仕事をしていて楽しくなったのも感じている。

 

ただ、今の僕は、曲がりなりにも組織を預かる者だ。振り返って考えれば、相当肩肘に力が入っていた、わかり易いヒヨッコだったように思う。(今もだが)

 

僕はたくさんの「べきだ」を自分に課しまくった。全スタッフの動きを把握するべきだ、自分が誰よりも働くべきだ、1年目だろうが結果を出すべきだ―。

 

それが正しかったのか。まだまだ長尺の視点は要るだろうが、正直今は、「違ったわ」という感覚が拭えない。なぜかと言うと、実際に苦しいからだ。

 

僕がやっていることは、相手にとって不信と映っているのではないか?自他に求める像の合格点が、オーバースペックに達しているのではないか?

 

不安が不安を呼び、あの山を越えても新しい山が出てきて、休日はどんどん減り、しかしながら結果を出していないんだから無理もないと、自分を追い詰めたくなる。

 

あまりにも危うい。そして僕はもう”その間際”にいるということが、とある放送作家さんのnoteを読んで、冷静に認識することができた。

note.com

 

特に強く共感を覚えたのは、以下の部分である。

 

ここ最近、生活の忙しさと仕事の忙しさが重なり続けていて、一山超えて落ち着けるかと思ったらまた新たな山が来て、という状況の繰り返しでした。

 

(中略)

 

日曜日(2023年10月22日)にこんにちパンクールの撮影があって、ちょっと大きい撮影もありそこを超えた安心感でパタッと力が尽きた感じもあります。

 

自分としてはこれでも、自分のやりたいことが全然やれてない!という感覚です。

 

毎日働き詰めのように見える書き方を上でしてしまいましたが、24時間働きっぱなしとか全然寝てないとかそういうことはなく、ただ「いまはちょっと何かをやるにはしんどい」という時間がたまにあるので、それを差し引いて自由に動ける時間が全部埋まっている感じです。

 

自分のやりたいことの量と、やらなきゃいけないことの量と、心身の強さが釣り合っていないんだと思います。

 

いや自分めっちゃ頑張ってるけどなあ、と思うときと、いやフルタイム勤務の人の方が全然働いてるよなあ、と思うときもあります。

 

このあたりの折り合いの付け方はずっと模索し続けているところです。

 

―思えば僕は、すごくマッチョな働き方をする人たちの話ばかり読んで、自分へのインプットを重ねてきた堀江貴文氏、西野亮廣氏、見城徹氏・・・。

 

あの人たちは、もはや超人だ。一方、僕は凡人だ。超人の論理を凡人に当てはめれば、簡単にぶっ壊れるのは自明の話だ。

 

そのことに気付いていなかったとすれば、我ながらすごく不思議な話だ。僕は僕のことを、ただの凡人だととっくの昔に納得していると思っていたのに。

 

例えばプロ野球選手と僕は違う。それ自体に悔しさも何も感じないし、当然だろうという感覚もある。だが、仕事となれば、その観点を持ちえないのはなぜだろうか。

 

僕は僕を有能だと思っているのだろうかその素質があると信じたいのだろうか。だとしたら、そこへの執着が、僕の苦しみを生んでいるのではないか。

 

確かに、「仕事できんよな」と言われたらムカつくし、「仕事できるよね」と言われたら、嬉しい。それ自体は当たり前だが、なんかどこか、子供じみている。

 

他者評価に自分を完全に預けているのではないか。いや、そもそも論、視野があまりにも狭いのではないか?

 

例えば僕自身が無能と思えるほど有能な講師が居れば、その人に仕事を与えまくり、その人が快適な環境を整えた方が、利益は増えるだろう。

 

今の僕の立ち位置はここだ。いわば監督、いわばゼネラルマネージャー。いるようでいない、組織の中心ではなく、俯瞰する立場に在るなにか。

 

広い視野を基に組織運営をするなら、リーダー個人の価値観や信念、器や願望は、悉くどうでもいいではないか。

 

僕はマッチョな働き方で先陣を切るリーダー像という型に、力づくでこの1年、自分を押し込み続けてきた。結果、「全然合わない」ということに、そろそろ気付きたい

 

というより、みみっちい話で恥ずかしいが・・・僕は、有能だと認められたい、思われたいということに、今はっきりと気が付いた

 

それ自体が例えば「モテたい」みたいに強く正の方向へ働くモチベーションだったらいいのだが、はっきりとこれは負のモチベーションになっている。

 

その証拠に、その印象を剥奪されることを恐れて、仕事にしがみつくから、全然休みを取らないし、その状況をどこか正しいとさえ感じているのだと思う。

 

有能な人がしそうなことをおままごとする。それによって、優秀な自分というコントロール不可な評価に執着する。胸から取り出せば取り出すほど、滅茶苦茶恥ずかしい

 

思えば僕の思考の根底には、自分が「デキる」と見られるかどうかが結構なウェイトを占めている。比較されて、結果下に見られることが、たまらなく嫌いなのだろう。

 

だから高学歴の人を見るとどこか構える自分が居るし、英検1級を僕より若く取得した人がいると、少しライバル心を持ってしまうのだと思う。

 

なんだろう。これってまさに、仏教が「持ってたらよろしくないねぇ」と説く、【我慢】そのものではないか?

 

その意は、このブログのこの部分を読んで、一層強くなり、確信にまで至っている。

 

私は仏教を勉強していくうちに、自分が人に施して「相手が喜ぶこと」ではなく、「喜ばせている自分」が好きだったような気がしてきました。

 

そして我慢という言葉の意味を知った時、私の「頼らず、頼られたい」という心は、自分が優秀であると認められたいという我慢であったことに気づいたのです。

zenkatsu.site

 

そして我慢の定義を読んだ瞬間、あまりにも自分の弱点を突かれたような気分になり、黒歴史の詩を朗読されたかの如く、「ああぁぁ~!!」と思ってしまった

 

煩悩の一つで、強い自我意識から生まれる慢心のことです。

 

仏教では、自分を固定的な実体とみて、それに執着することで起こる、自分を高く見て他を軽視する思い上がりの心を〈慢まん(māna)〉と呼び、このような心の状態を分析して、三慢、七慢、九慢と説きます

 

我慢|じつは身近な仏教用語|仏教の教え|日蓮宗ポータルサイト

 

僕という人間の根本的なバグは、まさかの不釣り合いなプライドの高さにある。その仮説に立脚すると、恐ろしいほど全てのパズルのピースが埋まっていく。

 

勉強しない生徒が苦手なのは、子ども一人勉強に向かわせられないのかよと無能扱いされそうだからだ。

 

クレーム系がめちゃ怖いのは、僕という人間の全プライドや全人格を感情的に否定されてしまうからだ。

 

子どもの制御にヒヤヒヤするのは、やはり低学年をきちんとしつけられないのかよと後ろ指を指されそうだと思ってしまうからだ。

 

全部が全部、いつかオオムラサキになることを夢見て繭の中に眠る芋虫みたいな自分を自覚しながらも、認めたくないから今の内からカッコつけてると思えば納得だ

オオムラサキ/オス , 蝶の標本 販売・通販のNatureShop|モルフォやキプリスモルフォオオル リアゲハ

 

「今は醜いしパッとしないけど、俺が繭から出てくるときには皆が羨むチョウチョになってんねや!」という風に。

 

その証拠として、実績なり結果なりを、小出しにして周りに示し、褒められたかったんだろうなぁ。認められたかったんだろうなぁ

 

僕自身の中の醜くも愛しく儚い部分に、僕自身がなんでもっと早く気付いてあげられなかったんだろう。すごく↓の気分である。

 

ここで急に、滅茶苦茶共感を覚えた歌の歌詞を思い出した。それは【BLEED】という曲の一節だ。モチーフになったキャラの背景を考えても、すごく刺さる。

 

https://j-lyric.net/artist/a001a09/l03900c.html

 

僕は諦めたふりして楽になりたいだけで、ほんとは誰にも負けたくない。だけど、それによって苦しいことは、偽りようがないよね

 

他者比較という巨大なネットワークに自分を置き続けて、上下左右から永遠に監視され、一喜一憂し、結果として疲弊しながらも、みみっちいプライドだけが守られる。

 

僕にとって一番大事なものは、プライドである。・・・・・本当に、それでいいのか?そんなのを第一において、僕の人生は幸せなのか?

 

ここまで考えたとき、すごくしっくりくるイメージが、突如頭に湧いてきた

 

僕は将来オオムラサキになることを信じ、繭の中に潜んでいる芋虫のようなものだとさっき述べた。だが実際は、薄々オオムラサキでないことを認識している

 

※もしやと思ってさっき調べてみたら、オオムラサキは繭ではなく、蛹を作って成虫に変態するそうだ。あぁ・・。(察し)

オオムラサキ・・・サナギになりました | 大田原市ふれあいの丘自然観察館

 

潜在意識ではきちんと認識しているからこそ、全然繭から出てこずに、可能性の中に生きているのではないか。しかも、ある種、この上なく護られた状態で、だ。

 

「実は自分は蛾なのではないか?」という自覚と恐怖。芋虫たる僕は、それを分かっているからこそ、自分を確定させたくないのかもしれない。

 

僕は億万長者になれるかもしれない。とんでもない美人と結婚しているかもしれない。豪華な新居を建てられるかもしれない。カッコイイ身体になれるかもしれない。

 

もし自分が、オオムラサキであれば。成虫になれば嫌でも確定するが、幼虫のまま留まれば、シュレーディンガーの猫よろしく、可能性が残ることになる。

 

だが、よく考えれば、例えただのガであろうとも、オオムラサキの幼虫よりかは、空を飛びまわれる時点で自由だ。

 

もちろん美しくて空も飛べるオオムラサキの方がチヤホヤされるが、それでもその幼虫よりかは生きてて楽しいのではないか。まぁ、捕食されるリスクもあるが。

 

―というところでまた一つ思い出した。それは斎藤一人さんのこの言葉だ。

 

「マグロは回遊魚と言って、海の中を泳ぎ回っているんだよ。

 

そういう風に神様が創っているのに『イソギンチャクみたいに1箇所に落ち着いていたい』と願っても、できないんだよ。

 

それよりも、回遊魚のマグロは、神様が創った通り、海の中を泳ぎ回っていた方が幸せなんだよね。わかるかい?

 

自分ではない人間になろうとする必要はないよって、言いたいんだよ。恵美子さんは柴村恵美子として生きるんだよ。

 

自分を生きるって、どういうことですかって?まずは自分の好きなことを1つ増やして、嫌なことを1つ減らしてごらん」


神様ってね、あなたがもっと幸せになること、もっと豊かになることを望んでいるんだよ。だから、幸せの方へ、豊かになる方へ向かって行けばいいんだよ。

 

www.shiho196123.net

 

"自分ではない人間になる必要はない"・・・・。この言葉が、今は全く違う重さと意味合いを持って、僕の胸に刺さり、どんどん染み渡っていく感覚がある。

 

なるほど、なぁ。

 

美男美女に生まれた人は、異性からアプローチされまくる、就職が楽になる等、人生がイージーモードになるという特典を満喫してください。僕には関係ありません。

 

運動能力に秀でた人は、競争という世界でしのぎを削り、パフォーマンスで皆を沸かせることができるという特典を満喫してください。僕には関係ありません。

 

ギフテッドと呼ばれる才能を持ちえた人は、その頭脳を駆使して、人類の叡智を更に広く遠くへ押し広げてください。僕には関係ありません。

 

スタンダード化した幸福・有能さなどクソ食らえだ。僕はどの既製品的文化も、自分の価値観や心にしっくりこない。それだけの話なんだと思う。

 

それに、いわゆるスタンダード化した幸福・有能さは、極めて曖昧で、数十年も経てばまるで別物に変化する、言ってしまえばいい加減な尺度である。

 

ほんの200年弱前まで、男が男と性交するのは当たり前の時代だった。ほんの50年弱前まで、仕事しながら煙草を吸うのは当たり前の光景だった。

 

移ろいの中でたまたま、今はオオムラサキがモテているだけなのだとしたら、オオムラサキであることも、そうでないことも、まるで意味のない問いだと思えてならない

 

僕はとりあえず、成虫になり、繭から出なければならない。それは具体的に何を指すのかはわからないが、不可逆な変化を遂げなければ、永遠に苦しいだけだ。

 

齋藤一人さんはその一歩として、好きなことを1つ増やし、嫌いなことを1つ減らそうと提案している。なるほど、これならまず、パッと取り組めそうだ。

 

気付けば引用も含めて文字数が6500にもなっているが、今回判った僕自身の根本的なバグ。それは、僕は実のところ、かんなりプライドが高いということだ。

 

理想を可能性と勘違いしている。なる必要がない存在に憧れて、そうなろうとして苦しんでいる。僕はいわば、繭の中でのた打ち回る、蛾の幼虫なのだ。

 

カッコイイ人たちは確かにカッコイイが、僕はそれを一つのエンタメくらいに感じておくのがいいのではないか。

 

アイドルだって寝顔は腫れるし、うんこはするし、風呂に入らなかったら臭くなるし、勉強しなかったらおバカになるし、何より歳を取ればおじさん・おばさんになる。

 

煌びやかな人たちの中にもだらしない部分はあるが、それをカットして編集した部分を僕らは見ている。あれらはいずれも、編集された後のものなのだ。

 

カルピスの原液みたいな濃さに凝縮された、スタンダードな魅力の集合体。そうあり続けることは、僕にとっての幸福にはなり得ない。つくづくそう思う。

 

こう考えていくと、オオムラサキみたいなキラキラした側に生まれなくてよかったように思う。てかなんなら、VTuberになれば、そっち側に行こうと思えば行ける。

 

だが、そうしている自分をシミュレーションしてみたが、バリキモいという印象を持ってしまった。チヤホヤされたいはずなのに、されたという妄想で吐き気を催す。

 

僕が思っていたカッコよさは、確かにカッコいいものではあるが、自分に当てはめると拒絶反応が起こる類のものだった。今、心底納得した。

 

エンタメとして楽しむことはまだできるが、例えばコスプレ等を通じて、自己同一化をすると、多分体調が悪くなる。一つ、また一つと、自分という人間の謎が見える。

 

・・・そもそも論、僕は何をしているときが幸せなのか。仕事で何を為したときが本当に”幸せ”なのか。したことがあったようで、実は無い問いかけ

 

昨日無意識に何をして過ごしたかを思い出す。潜在意識に沈む「楽しいこと」を、僕は日常に取り入れているはずだと思ったからだ。

 

そして、バキ童チャンネルを延々と観ていたのを思い出した。いい意味でくだらなくも面白い企画と、それを中学生みたいに楽しむ大人たちが、とても眩しかった。

 

あまりにも楽しそうな様子を見て、彼らのことが知りたくなり、春とヒコーキの二人や、スタッフの人たちのnoteを読んだ。

 

そして、心底驚いた。揃いも揃って、闇を抱えているからだ。もしかして、本当の面白さとは各々が抱える闇の中で醸成される、何か哲学的な真理なのだろうか

 

鬱、いじめ、いじられ、劣等感、留年、ニート体罰、暴力、疎外、孤独。それを過去に背負いながら、なんであの人たちは・・・楽しそうに笑えるんだろう?

 

ここで悟った。正直僕は、今更イケメンにもマッチョにもリッチにもなりたくない。多額の金を払ったり、VTuberになったりすれば疑似体験が可能だが、どうでもいい。

 

むしろ、自分が思う面白さを素直に追いかけて、「どすか?」と周囲に問い続けたいなと、改めて思った。僕が繭から出た後の姿が、少し見えた気がする。

 

必死こいて自分を磨いて高嶺の花を落とそうとするより、必死こいて腕を磨いて大きな魚を釣り上げる方が楽しいと思う。

 

数十人に対して講演を行う自分より、気の合う仲間にアホな話をして数名相手に爆笑を取る方が、何倍も気持ちいいと思う。

 

年収1000万円の肩書を持つ自分より、「今月食費2万で収めたで!」とか言ってる自分の方が、たまらなく愛しく思う。

 

あ。

 

思い出した。

 

そうだ、僕は昔から言われていたじゃないか。

 

変わってんな、って。男女問わず、独特な世界に生きている、って、何度言われてきたんだろう。

 

そんなへそ曲がり野郎には、そもそもスタンダードな文化は合わないということなんだろうな。なんで・・・こんな大事なことを忘れていたんだろう。

 

あぁ、スッキリした。理想と現実の落差、疲労困憊、おまけに急性アル中疑惑で死にかけるという経験を経た今、僕は本当に、自分の中の真理に辿り着いた気がする

 

僕は僕にとっての幸福論さえ、どこか捻くれている。そしてそれは、世間一般のスタンダードとは、まるで異なっている。

 

だから必死に探し出すというか、その輪郭を作らなければいけないのだと言える。繭から飛び出て、成虫になり、蛾の視点から世界を見つめて、僕は何を感じるんだろう。

 

失敗してもいいじゃないか。失敗とはなんだ?僕が人からカッコ悪いとみられることか?いやいや、それ自体が一つのネタだし経験値だし、闇を肥やす肥料じゃないか。

 

「俺こんなこと思ってんねん、どすか?」「やらかしちゃいましたよ!でも、どすか?」そうやって問いながら、チョロチョロふらふら飛んでいる蛾みたいなやつ。

 

昼は一切目撃されず、人気がなくなったらはしゃぎ回る蛾みたいなやつ。オオムラサキに造形は似ているくせに、そもそも分類から違うヘンなヤツ。

 

蛾は蛾なりの幸せを、僕は探さなければいけない。スタンダードから外れると、つべこべ言ってくる奴らはいるだろうけど。時にそれは、身内だろうけど。

 

だが僕は、実をいうとつべこべ言われるネイティブだ。学校の成績然り、つべこべ大人から言われなかったことが、マジでない。

 

字が汚い、話を聴かない、集中できない、先のことを考えない、何考えてるかわからない・・。どれもこれも、うるせーって。

 

何が「もう少し頑張りましょう」だよ、何が「2CCC」だよ。既にお前らの基準とは違うところで、必死なんだよこっちも、という話だ。

 

―が、多勢に無勢。高校へ進学して、受験勉強を経て大学へ通ううちに、僕の価値観はすっかりスタンダードに染まっていたようだ。

 

だがそれによって辛さと苦しさと窮屈さが生まれているんだから、いっそのこと、回帰する方が正しいのかもしれない。

 

もう、イイ子でいることはできないんだ。32歳になってようやく気付いたけど、僕は昔から、別にイイ子ではない。

 

むしろ”ちゃんとあろう”とすることが毒になるくらい、曲がったヤツなのだ。ちゃんとしようとし過ぎて苦しかったこの繁忙期で、すごく大切なことが学べたものだ。

 

ところで、ここ2年くらい、仏教について勉強している。元々は【観察力の鍛え方】の影響なのだが、最近はその思考体系そのものが凄く好きで、趣味として学んでいる。

 

好きという感情は言語化が難しいが、今回の内省を通じて、その理由に心当たりができた。仏教思考は解を示さず、考え続けるための型を授けてくれるからだ

 

人から与えられる答えがことごとくマッチしない僕みたいなやつは、考え続けてそれを作っていくしかない。そのための道具、思索のヒントが、そこには詰まっている。

 

佐渡島庸平氏の言葉を借りれば、今僕は、何かの真理や答えに辿り着いたのではなく、ようやく「幸せってなんやねん」というそもそもの問いの入り口に立ったのだ。

 

何虫になったのか知らないが、僕は成虫になり、世界を今、ありのままに見ているという感じだ。ここは天国か、はたまた地獄か。それを認識する材料すら手元には無い。

 

捕食者だらけの危険地帯とも言えるし、同志がどこかにいる夢のある世界だとも言える。飛び立つと言えば大袈裟だが、とりあえず繭からは出ないとな。

 

繰り返すが、理想自体を持つことは否定しない。モテたい、すごいと言われたい、そういう俗的な欲からトンデモナイところに行く人は、一定数存在する。

 

ただ、僕にとってはそれが合わなかったということだ。昔から、どちらかと言えば散り際の美学という言葉が好きなのだが、それは生き様の理想が無いからかもしれない。

 

僕は何と墓石に書かれた状態で、地中に眠りたいだろう。そうだなぁ、「なんかよくわからないけどとりあえず楽しそうだったやつ」かなぁ。

 

今まで僕は、論理を積み重ねて、自分を知ろうとしていた。奈落の底に向かって縄梯子を少しずつ垂らしていくような時間。これ自体は有意義だったと思う。

 

だが今度は、しばらく逆にしてみようかなと思う。先に感覚や情動ありきで、そこからピラミッドのように、下から確固たる土台を作っていくのだ。

 

もっとエモーションを尖らせて、本能で、直感で、楽しいものを楽しいと、面白いものを面白いと認識する。言葉で理屈をつけるのはその後だ。

 

ふと顔を上げてみた。外の景色が見える。朝に見たときより、気持ち穏やかで、特にそれを見て何かを連想することが無い。

 

この世界に対し、ネットワークの点の一つとして、僕は何ができるだろうか。できれば、僕も他の人も、楽しめる何か。

 

嫌なことは避ける。したいことはやる。子供じみた論理だが、やはりこれが一番結局、人生を充実させてくれるし、楽しい時間を過ごさせてくれるんじゃないかと思う。

 

10,000字。書き殴ってやった。ここまで読み切る物好きな人も暇な人も、いないだろう。だがそれでいい。もはやこれは、中身のない繭の外殻だからだ。

 

原稿用紙で言えば25枚分くらい。そんなに膨大な自分慰めの記事、なかなか無いんじゃないかと思う。でも、僕のバグや闇、真意を言葉にしたら、届いてしまった。

 

あー、スッキリした。朝に感じていた抑うつ気分も、どっかへ行った。仕事終わったらなにしようかな。バキ童チャンネル、また開こう。

 

蛾としての人生も、きっと楽しいものなのである。

 

では今日はこの辺で。

 

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