精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【「俺の心は豆腐メンタル」って、本当ですか?】あほな自由研究・報告レポート  第十四部 ―自分の強みとは、最たる弱点のすぐそばに潜んでいる説―

クモが巣に掛かった獲物をお食事している光景を、純粋な好奇心を持って数分観察していた中元31歳です。

 

はい。突然だが、僕はずっと、自分のメンタルが豆腐であることを弱点であり、課題であり、そして肯定できない特性であると考えている

 

昨日も、とあるYouTuberが誹謗中傷を受けたとか、それによって説明の動画を撮らざるを得ない状況になったとか、そういうネガティブで自分が落ち込んだりしている。

 

他人の不幸で、自分が辛い。これを、思いやりがあるとか気持ちに寄り添えるといった耳さわりの良い言葉で置き換える気はさらさらない。これは僕の、確実な弱点なのだ。

 

こういう意味不明な思考は、やはり生き辛さに直接つながってくる。苦しみがあるのが当然と説く教えもあるが、せめて軽減することはできないものか。

 

それを達成すべくあれこれと調べる中で、例えばサイコパス性が必要だとか、【共感疲労】の対策が必須とか、色々な知識を得ることはできた。

pro.kao.com

 

しかし、様々な仮説を立てて、検証しても、なかなかにメンタルのハックは大変だ。また、あまりにも成長と改善が遅いため、モチベーションも圧し折れ易い。

 

毎日身長の伸びを確認すると、全然変わらないというデータだけが日々積み重なるのと似ている。ブレイクスルーは無いと覚悟しても、手応えの無さに慄然とする。

 

もうこの現実とは、徹頭徹尾向き合うしかないのだろうな。天性の心の弱さは受け入れて、折り合いをつけながらも・・・・。

 

―なんてことを、思っていたのだが・・・・。今日本当に、ふと、あることに気づいた。このあることとは、僕自身の思考の癖に関することなのだが・・。

 

それは、メンタルに関する僕の強みにして、僕が辛いと思う事象全てを論破しうる、相当強力な気づきであった。

 

今日は本当に何言ってんだオメェという話だが、僕自身のメンタルの摩訶不思議さを記事にしたためたいと思う。

 

もしあなたが、自分のメンタルの弱さを課題に思われているのなら、きっと全く新しく、イカれた目線からのヒントに繋がると思う。

 

そんな記事、以下開始!

 

 

他人の不幸で、自分が辛いのは間違いないが・・。


まず再確認だが、僕ははっきりと、他人の不幸で自分が辛い。例えば、小説の登場人物がイジメられれば、心中を察して僕も苦しくなる。

 

アニメ等の暴力シーンで、一方的に主人公が殴られるシーンもキツい。それと似た感じで、インフルエンサーが誹謗中傷を受けていると告白する動画も辛くなってくる。

 

目の前でキツそうな誰かを見ると、僕にもそのネガティブな感じが伝染する。誰かの失恋でも、僕のメンタルは引き裂かれるのだ。

 

―こんな風に、僕は他人の辛さを吸収して、自分の心を病むという弱点がある。ちなみに、この仮説を基に辿り着いたのが、【共感疲労という言葉だ。

 

そしてさっきも書いたが、昨日もうっかり誹謗中傷コメントに触れてしまい、心がクタクタになっていた。はぁ、きついなぁ。そんなことを考えていた。

 

・・・天啓は、そのときに来た。本当に神様が僕の脳内に直接囁いたかの如く、自分の思考の外から、ある重大な問いがやってきたのだ。

 

その問い、もとい天啓とは、こうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところで、お前自身が直接怒られて凹んだ経験って、いくつあるんだ?」

 

 

「ところで、お前自身が直接怒られて凹んだ経験って、いくつあるんだ?」

 

 

「ところで、お前自身が直接怒られて凹んだ経験って、いくつあるんだ?」

 

 

・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれ?いくつあるっけ?

 

実際、今まで僕の心が重くなったあれこれを思い返したが、全部が全部、綺麗にある共通点を持っていた

 

それは、僕以外の誰かが、別の誰かに攻撃されたり、不幸な事故に巻き込まれたりして、苦しんでいるというものだ。

 

先の例も実は全て、そうなっている。僕が預かり知らぬところで不幸に見舞われて辛い人の姿を見ると、僕も辛くなるという図式に、綺麗にまとまっていく。

 

ただそんな僕は実際のところ、僕自身が他者に敵意等を向けられてガチ凹みした記憶が、マジでないのだ。

 

頑張れば数個出てくるかもしれないが、それらは決して、アンチコメントに対し沈痛な表情を浮かべる昨日のYouTuberの姿に敵いはしない

 

となれば、面白い仮説が浮かぶ。

 

僕は実のところ、怒られてもすぐ忘れるというか、怒られていることに気付かないタイプなのではなかろうか。

 

なんてことだ。僕の豆腐メンタルは、全て他者に対してのものかもしれないのだ!そして自分に対するそれについては、天性のスルースキルを有している可能性がある、と。

 

・・・確かに、確かに。そういえば、確かに。

 

僕は後々になって、人から指摘されることで、「お前、怒られてたよ」「理不尽なこと言われてたよ」と気付かされることが、過去何度も何度も、何度もあった

 

例えば、中学の頃は部活をサボった関係で、同級生からも先輩からも挨拶を無視され続ける期間があったが、当時は「ま、そうだよねー」と冷静に全てを受け止めていた

 

小学生の頃は、「お前、先生に集中放火されてイジられ倒してたよねー」という状況だったことに、何年も経ってから指摘されることで気が付いた

 

別の機会では、幼少期に今思えばイジメのような状態に遭った気もする。当時は結構こたえてたはずなのに、今は特に感想が浮かばないナァ。

 

社会人になってからも、出社の際上司より遅く来たら烈火の如くキレられていたそうだが、僕はその際、ただの注意程度にしか考えていなかった

 

別の機会でもマジ切れされた記憶があるが、「なにをそんなにプンスカできるんだろう」とどこか冷ややかに見ていた自分を記憶している。

 

退職を伝えた後も、「あのヘタレが」という風に影で結構非難されていたそうだが、田んぼでケロケロと聞こえるカエルの合唱の方が、聞いてて有意義だと思っていた。

 

今の会社に転職してすぐも、似た一件はある。上司から謎にキレられた僕を心配して、謎の飲み会が開かれたことがあるのだ。

 

かくいう僕自身は、普通に先輩が飲みたいからその会が開かれたと感じていたのだが。そのときは確かに、メンタルが図太すぎると指摘された覚えがある。

 

―思い出そうとすれば、まだまだ記憶出てくる。

 

少年野球チームにいた頃は、理不尽が日常的なこと過ぎて、理不尽とは何かを理解していなかったと思う。エラーすればバットが飛んでくるのは、指導の一環、という風に。

 

これらを考えると、僕は僕にだけ向いたネガティブや敵意をいなすのは、かなり得意という可能性が見えてきた正常性バイアスの発動条件が、人より緩いのかもしれない。

 

では、全てこういう風に切り分けていけば、僕の深層心理は明瞭に解きほぐせるのだろうか。ただ残念ながら、そこまでシンプルではなさそうだ。

 

実際、僕の心にヘドロの如くこびりついた記憶の中にも、僕がぶち怒られているケースは存在する

 

例えば、去年の激烈なクレーム案件についてもそうだ。あれは今思い返しても、胸の辺りがムカムカしてくる。ただのアホとして切り捨てるのが難しい。これはなぜだ。

 

・・・すると矢継ぎ早に、あることに気が付いた。

 

実は上記のクレームの件、僕自身はその人に、面と向かってブチ切れられたワケ”ではない”

 

ややこしいが、僕に対する強い怒りを、僕じゃない人に表明し、そして僕はその人から聞かされて知った、というのが実際のところなのだ。

 

実はその人の顔も声も、僕は存じ上げない正常性バイアスを発動させるには、少し当事者意識が弱い気がする、という印象だ。

 

ここまで考えれば、一つの簡潔な仮説が見えた。

 

僕は、他者が巻き込まれていない、僕に向けられた敵意には、非常に鈍感である

 

という話だ。実はこれに付随して、ある別の仮説も立ったのだが、それは今回関係ないので省略することにする。

 

さて。仮に僕がこういう性質を実は持っているのだとすると、ではなぜ、他者のネガティブに自分が弱いのか、完全に別目線の仮説が作れそうだと感じている。

 

続いては、それについて書いていくことにする。

 

僕が他者の不幸を吸収する理由。


この仮説を確かめるため、ちょっとした無料診断をやってみた。

HSP診断テスト - 選ぶだけの簡単セルフチェック

 

すると、自分にとってはその仮説を補強するデータが得られて、少し興奮している。それは、こんな具合だ。

 

僕はガチなそれほどではないが、HSP的なメンタルの癖があるらしい。つまり【不安】を過大評価しがちという特性があるという話なのだ。

 

―ところで、【不安】とは、「わからないもの」に注意が向いている状態である。ここを前提に考えると、僕の中で全てが繋がる。

 

僕にとって、他者から批判されたり、攻撃されたりすると、どういう感情が湧くのかは、自分に原体験がほぼ存在しないため、イメージすることができない

 

「さぞ辛いだろうね・・」と言おうにも、その人の心中を慮ることは、僕には難しい。嘘くさく聞こえてしまう。なぜかと言うと、先述の例の通り、ピンとこないからだ。

 

そしてイメージできないということは、わからない、つまり【不安】な状態に陥りやすいということ。だから、表現される痛みや辛さを、過大解釈してしまう。

 

ならば、自分の思考によって増幅した、架空の痛みこそが、僕が処理しきれないネガティブの正体なのではないか?

 

そう考えてみると、僕自身はすごく腑に落ちた感覚を抱いている

 

僕は、僕が非難されたり怒られたりするのを恐れているのではないのだ

 

他人が、僕の知らない感情に苦しむ姿を見て、それが自分にふりかかりやしないかと、怯えているのだ。

 

本質ではなく、印象を恐れているのに過ぎないのだとしたら?例えば一見強面の人がいて、その人に殴りかかられたらどうしようと不安になるのと似ている。

 

そしてその本質について、僕は猛烈に鈍いのだとしたら?悪口を悪口とそもそも思わない、嫌われてもだから何と思える、実はそういう人間なのだとしたら?

 

いわば、他者に明確な敵意や攻撃を向けられた際の、僕の分人。これを僕のメインに据えられたら、もしかしたら今抱えている問題が氷解していくかもしれない。

 

ただここからは、また別の問いになる。腰を据えて、改めて考えを深めていくことにしよう。

 

終わりに。:僕は僕が程遠いと思っていた人間なのか?

 

それにしても、この結論にたどり着いたのは、我ながら大変意外だ。

 

僕は他者からの敵意が怖いのではなく、他者からの敵意がどんなものかわからないという不安が怖いのだ。

 

あんなに明朗な人たちが沈痛な表情を浮かべるほど、心のエネルギーを奪い去っていくなんて、一体どんなに辛いんだ・・・という想像が、辛さの正体かもしれない、とは。

 

しかもその敵意がわからない理由は、そもそもそれを理解する能力が乏しいからという仮説は、我ながら笑いが出てくるほど素っ頓狂である。

 

食らったことがないからわからないのではなく、食らってもそうだと認識してないからわからないという話。経験値はすでに、己の中にあるのはあるのだ。

 

毎日ハバネロを何本も丸かじりする食生活の人が、ペヤング激激辛が滅茶苦茶辛いという噂にビビり倒すようなものだろうか。滑稽すぎる。

 

となれば、冷静に考えれば攻撃だった場面の、僕の分人をどうにか思い出せれば、それをヒントに自分の中へ疑似的な経験値・感覚を作ることができるかもしれない

 

眠れぬ夜に、思いを馳せようと思う。胸糞悪い話は思い出すと辛いが、僕自身が怒鳴られる思い出には、犬が吠えるのを思い出すのと似て、感情がくっついてこないのだ。

 

さて。

 

僕は、サイコパスと言われる人や、ハートが強い人が持つ、スルースキルに憧れていた。僕自身、それの対極の人間だと自負していたからだ。

 

だがよくよく考えて、思考をひっくり返し、様々な出来事を冷静に思い出してみると、僕はスルースキルが標準装備されている可能性が出てきた。面白い話だ。

 

自分が徹底して弱点と感じていることのすぐそばには、案外最たる長所・強みが眠っているのかもしれない。そんな希望を感じる一幕であった。

 

それでは、今日はこの辺で。