僕らは脳で思考する。そんなの当たり前とも言えるし、どことなく違和感を覚えるともいえる。僕らという概念の正体は、脳だと定義して良いのだろうか。
アインシュタインは死後、その脳を取り出され、細かくスライスされ、それは各地へ散らばったそうだ。
ではその1つ1つを、僕らはアインシュタインと定義し、そう呼ぶのだろうか。いや、呼ばないだろう。取り出された時点で、それは完全に別物だ。
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脳ではなく、脳の中で行われる活動によって認知される意識。それが「わたし」なのだろうか。では、寝ているときの僕は、僕ではない、と言えるのか。
考えれば考える程堂々巡りで、底なし沼に嵌っているような感覚を抱く。しかしそれでも、僕はその先を知りたいと思う。だから今週も、じっくり思索に耽ることとする。
- 1月1日(月) 釈迦は脳内をどこまで深く観察できたのか。
- 1月2日(火) 完璧は脆い。
- 1月3日(水) 記憶力の正体。
- 1月4日(木) 今日はどこへ脳を運ぶ?
- 1月5日(金) 簡単に書ける超難問。
- 1月6日(土) 続・簡単に書ける超難問。
- 1月7日(日) 「還るのだ」
1月1日(月) 釈迦は脳内をどこまで深く観察できたのか。
大局観でも読んだ話だが、脳の中にはさながらデータのごとく、確固たる何かが順序だててそこに刻まれているわけでは”ない”のだという。
むしろ様々な刺激や情報の相互作用により、記憶は絶えず変化し、理性と感情をつかさどる部分をメインとして、脳内での往き来を繰り返しているそうなのだ。
それは寝ている間に脳の様子を観察していても同様だといわれる。
まさに諸行無常、全ての物事は相互作用によってたまたま現出しているだけという仏教観と凄くマッチしており、どこか興奮さえ覚えるほどだ。
そう考えれば物事など忘れる方がやはり自然であり、覚えられないことは僕の脳が不要と判断した、僕に要らないものとしてどこか好意的に解釈できる。
ただ、何が要るか要らないかさえ、それはその時々の環境や興味の影響を受けるものである。
定常不変なものは無い。今は要らなくても、これから要るものなど多々存在するのだ。
ただし、逆もまた然り、である。
1月2日(火) 完璧は脆い。
脳内のやり取りは、それを可視化しても、完全にシンメトリーなネットワークになっているわけではないという。
むしろときにはサボったり、あるいは不格好な神経系が存在する方が、全体の機能として何かが欠けた際のバッファ的な役割を果たすそうなのだ。
例えば体勢維持を直接司る機能が停止しても、別の分野がそれをカバーし、全体的な機能としてのそれは喪わせない。不完全なものほど、壊れないのだ。
一方完璧なものは作品としては確かに美しいが、それは同時にこの上なく脆いし、融通が利かないということでもある。
完璧とは程遠いステータスに生まれ育ったことを、しみじみと良かったと思う。そんな今日この頃である。
1月3日(水) 記憶力の正体。
応用の利かないそのものよりも、汎用性のあるヒントをたくさん頭に入れておく。すごく面白いヒントに出会えた。
脳神経はそれぞれがネットワークで繋がっているが、処理できる情報の数は、神経細胞それ自体よりも桁外れに多いのだそうだ。
これはやり方次第で、片手の指で何千までももカウントする方法と同じカラクリではないかと思う。
知識や経験則はネットワーク的に繋げておく方が、よりたくさんの演算を、応用性をもった状態で行える。
例えば「足利尊氏」と覚えるより、何時代の人で何をしたかというステータスを重点的に覚えて、それらを繋げた結果として「足利尊氏」という語句が浮かぶのが理想。
うまく言葉にできないが、そんなことを体感として覚えている。
1月4日(木) 今日はどこへ脳を運ぶ?
フットワークが軽い人に憧れる。著者もそうだが、この本には自分の探求心にめちゃくちゃ正直な人がたくさん出てくるからだ。
行動力は何から生まれるか。本当によく自問自答するが、その人たちと僕とでは、まず動くか、それともまず考えるかという、最初の反応がそもそも違うのだと感じる。
どっちが良いか悪いかではなく、どちらにも一長一短あるというそれだけなのだ。
彼らはまず、動きたい。僕はまず、備えたい。僕に出来ることはたぶん、備えの期間を短くし、型と呼べるほど、やることをテンプレ化して刷り込むことかなと考えている。
面倒くさいという感想から意識的に解像度を上げて、一層行動に自分を繋げやすくなりたい。これも当面の目標かなと思う。
1月5日(金) 簡単に書ける超難問。
「俺が見ているものと同じものをお前も見ていると、どう証明すればいいか?」
それが筆者が会いに行った科学者が発した問いだ。シンプルだが、答えることは不可能なのではないかと思う。
確かに、例えば黄色という言葉を聞けば、ある程度似た色を、全員思い浮かべるだろう。
しかし、レモンのそれも、ビールのそれも、卵の黄身のそれも、微妙にやはり異なるはずだ。それを同じと括っていいのだろうか?
言葉が出来たことで、僕らは思考を伝え、それを残すことも出来るようになった。
だがそれは、究極的な意味で、個性を消すことにもなっている。そのことに気付いて以来、こうしている今も、すごく考えさせられている。
1月6日(土) 続・簡単に書ける超難問。
意識と、プログラムやアルゴリズムは、どう違うのか。よく考えたらすごく難問だと思う。ぼんやりとはわかるが、明確に定義するのが困難な問いだ。
例えばいわゆるゾンビは、単調な行動や叫びを繰り返すが、あれを自意識によるものと呼ぶことはできないのか。
鳥が鳴くのは本能だからとだけで片付けていいのか?それとも個体によっては人間で言う節回しのような工夫をしているヤツもいるのではないか?
意識、本能、プログラム、アルゴリズム、AI。技術の進歩とは、かつて言葉によって区別されていたもの同士の境界を曖昧にすることも意味するのではと、そんな風に思う。
1月7日(日) 「還るのだ」
死後の世界はあるのか。ものすごく究極的な問いが、ついに来たかと思った。
僕自身は、眠りから覚めたときみたいに、死後自分がそれまでの記憶を引き継いで復活することはないと考えている。
この辺りはまだまだ科学というより宗教に近く、著者と縁故のある研究者も、ダライ・ラマと語り合って端緒を得ようとしたほど、らしい。
普段自覚することはないが、僕らの本能とされるものは、過去を生きた個体の経験則が生まれながらに脳へ刻み込まれたものだといえる。
熱いものに触れると手を引っ込めるのは、熱いものに触れ続けて大きな傷を負い、死んだ個体が遺伝子に刻み込んだ記憶じゃないかと思う。
これまたオカルトだが、僕もまた自分の経験や体験をほんの少し阿頼耶識に還して、それから大河に戻るような気がしている。
死後の世界とは、「空」に戻ることを指す。これは希望なのか絶望なのか。僕はどちらでもないと思っている。
では今週はこの辺で。