仏教について解説した本や、その教えに触れた人は、「確固たる「我」など存在しない」という根本原理に触れて、首を思い切り傾げることだと思う。
僕もそうだ。現に僕は今、ここにいて、思考している。デカルトのセリフを借りれば、「我思う、故に我在り」なのだ。
それを踏まえつつも、確固たる「我」など存在しない、という真理と、どう折り合いをつけるのか。ずっと考えていた折、偶然、霧が晴れるようなnoteを見つけた。
そこに書かれている学びをヒントにすることでやっと、【確固たる「我」など存在しない】ということが、諸々と矛盾することなく腹落ちしたのを感じている。
今日はそんなお話だ。
僕は新品ではない。
仏陀の時代には恐らく存在しなかった概念だが、”僕ら”を構成している物を究極的に分解していくと、【元素】に行きつく。(化学はわからないので厳密には違うかもしれない)
では、僕の最小単位たるこの【元素】は、どこからやってきたのか。母親の胎内にいるときに、ゼロから出現してきて僕を象ったのだろうか。そんなことは無いだろう。
「宇宙創成」にも書いてあったが、森羅万象を構成する元素は元々、ビッグバン後に超高重力の星の中で作られ、新星爆発で宇宙に散ったものなのだという。
つまり煎じ詰めれば、僕らは元々、惑星だったものからできていることになる。それらが散らばり、数多の要因が重なって再び凝縮した結果が、つまり僕なのだといえる。
最小単位で考えれば、僕らはすなわち、借り物から作られて、たまたま今、現出しているだけの存在なのだ。借り物を自分独自の物と呼ぶのは、流石におこがましい。
実際ここには、仏教哲学における「空性」と、深いリンクを感じる。元素という可能性から、複雑怪奇な縁によって結ばれて、僕という存在が【果】として表れている。
そして僕は今、確かに「いる」ように思うけれど、その細胞は常日頃から生まれては死に、身体の中に蓄えられた水分も入れ替わり、年老いて、やがて死ぬ定めだ。
定常不変の自分は、やはりいない。大空に浮かぶ雲や、轟々と流れる大河のように、僕は絶えず変化している。では、僕はなぜ悩み、不安に思い、悶々とするのだろう。
僕という存在自体が仮初なのだとしたら、僕が責められた、僕がなじられた、僕が不快に感じた、その全てが荒唐無稽な現象だと、頭では納得できる。
いわば、お風呂から立ち上る湯気にパンチして、その湯気が感じたであろう屈辱や痛みを想像するのと似ている。なんというか、不毛だ。
そういえばアドラー心理学の根幹と言える教えに、「全ての悩みは対人関係にある」的なものがあるのを思い出した。
これはつまり、あの人と比べて私はダメだとか、あの人がいるから私は辛いんだとか、あの人のせいで私は日の目を浴びないんだ、といった話を指すのことだろう。
ここにおいては確実に、評価なり存在なりが確固たるものとして存在することが前提となっている。では、確固たるものが”ある”という前提を破壊したらどうなるか。
ただのロジック上の話にはなるが、確かに全ての悩みが消えることになる。土台を壊せば、同時に天守閣も破壊されてしまうように。
ここまで考えると、全てのピースが一つに嵌ってくる。
僕らは確固たる自分が居るという事実に執着し、それによって苦しみを感じているが、僕ら自体も空性から生じた偶然の産物であり、それでいて日々変化し続けている。
僕という存在自体が借り物で、仮初であるのだから、例えば僕が誰かに悪口を言われたとして、その悪口が指し示す人物は、存在するともしないとも言えてしまう。
論理的に考えていくと、確かにここに辿り着く。仏陀の思索や洞察の深さには、ただただ本当に、驚嘆するしかない。
―しかしながら、それらに反応するなにかがあるのも事実だ。悪口を言われたら腹が立つし、気持ちも傷つく。
そのリアクションの一つ一つが、確固たる自我が己の内に存在する証拠なのではないか、という意見もある。それはつまり、心ということか。
そして、心と自分が同一であるなら、心があることこそ、確固たる自分が在ることの証拠にならないだろうか。そう疑問に思っていた時期もある。
・・ここからはこれについて、先述の記事を読んだ結果と、こないだ読んだ【ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考】を基に、僕なりに考えた持論を書いてみる。
心もまた、借り物である。
僕らは心が空っぽで生まれてくる。これは、真か偽か。僕は偽だと思っている。なぜなら、誕生時には既に本能という形で、たくさんのソフトが導入されているからだ。
本当に空っぽなら、感情が無いから笑うことも泣くことも無いし、保護者を判別する能力さえ持ち合わせないこととなる。熱いものに触れても手を離せないだろう。
身体の動かし方も真っ新なら、遺伝的アルゴリズムみたいな徹底的な試行錯誤をゼロから繰り返す必要がある。それには膨大な労力と時間が必要となる。
だが現実はそうではない。人間に留まらず、あらゆる動物は生まれた時点で、既に多くのことを”できる”状態で生まれてきているのだ。程度に差はあれども、だ。
では、その本能はどこからやってきたのか。すごく壮大な話だが、何百万年もかけて蓄積されてきた、生物の経験則である。遺伝子に刷り込まれた、巨大な遺産と言える。
ここまで考えると、少し不気味な結論が見える。すなわち、心もまた借り物である、というものだ。なぜなら、そのソフトは全て、他のなにかが遺した知恵なのだから。
僕らの心はその寄せ集めであり、ネットワークそのもの。それは”ある”ように見えて絶えず変化し、変わらない部分は全生物が共通して持つ部分。
となればやはり、永遠不変な、他の存在と厳密に区別される自分は、やはりいないと考えられそうだ。つまりひっくるめれば、自我など、ない。
自分にどんな心がインストールされているかが、あらゆる対象への反応を決める。心はアップデート可能だが、根幹の部分を捨てることは不可能なのである。
いわば、確固たる僕が考えている、感じているように思えることもまた、ただそのときの因果によって生じた、一瞬の揺らぎのようなものだと言える。
阿頼耶識に存在するものの内、僕らは何を持って生まれてきたのか。その組み合わせが、その時々の刺激に、どう反応したか。
それらの感情、情動がいわゆる”僕らの心”であるなら、その根っこは借り物であり、自我は別に宿っていない、と言えそうである。
ここで、雑な例えだが、僕はカレーを思い出した。あらゆる材料が使われて、手間暇がかけられて、一つ一つがすごく個性的だが、僕らは”カレー”と括って認知する。
そのレシピは日々アップデートが可能だし、ドライカレーのように奇抜なアイデアへ、自由に展開することも可能だ。だが結局、それらはカレーである。
スパイスを調合し、たくさんの具材を煮込み・・・。どれかが違えば、それは別の料理だ。シチューやハヤシライスは、人間でいうとこのゴリラやボノボに当たるのだろうか。
心もそれと似ている。悪口を言われれば9割の人間はムカつくし、肉親の死に触れれば、立ち直ることなど不可能に思えるほどの衝撃を、ほとんどの人は受ける。
何に腹を立てるか、何を悲しむか、そういったアレコレはほとんど共通していることである。僕らが個性的と思っていることは、実は全て普遍的なのではないか。
人類は全て、嫉妬するし悲観するし憎悪するし激怒するし落胆するし絶望するし歓喜するし悲嘆するものなのだ。僕が感じるそれも、僕の個性ではない。人間の性だ。
僕が悩むこともまた、僕特有のものではない。人類共通のものだ。だからこそ古典を開けばそこには大抵、僕の前世のような人がいるわけで。
心が自分独自のものということの否定。これはある種のニヒリズムなのだろうか。実を言うと、ここまで書いてきた今、僕はそうだと考えていない。
ある程度のプログラムは共通だとしても、それを使って何をするか、何ができるかは千差万別だからだ。
同じ人間でも、パンが作れる人、靴が作れる人、知識を伝えられる人、数を処理するのが得意な人、本当にてんでバラバラだ。
そしてそれぞれの貢献の仕方が違うからこそ、人間同士が相互に協力し合うグループ、つまり社会というシステムができたのでは、というように感じる。
やはり思う。
「僕」という確固たる自我は、ただの幻想だ。名前を付けて個別のものとして扱わないと面倒というだけで、僕はその他大勢と同じソフトを実装した、OSの1つ。
なにかに腹が立ったとき、嫌な気持ちになったとき、悲しいことを感じたとき、楽しいことを感じたとき、それは”僕がそう思った”というわけではない。
大体皆そう思うのだろう。だから特有の悩みだなんて思うことは、本当に自己中心的というか、もっと言えば【我慢】だと思う。
【確固たる「我」など存在しない】という教えが、やっと少し、腑に落ちた。ただしこれはまだスタート地点。ここからさらに、色々考えていかないとな。
ということで今日はこの辺で。