自己流には違いないが、仏教の思考体系が好きで、ここ1年以上勉強を重ねている。進歩したなと思うこともあれば、全然変わってないと思うこともある。その繰り返しだ。
仏教において「わかった!」という満足はただの「慢心」に過ぎないので、手応え感が無いのは別に不正解を意味しないのだが・・それでも、現在地は少し気になる。
ということでこれもある意味備忘録だろうということで、今の時点で僕が学んできたことを、一旦頭から出しておくことに決めた。
客観的に見つめることで、また新たな発見にも繋がるし。ということで今日はそんな、途中報告的な記事を書いておく。
「唯一無二の自我は無い」ことと、「我思う、故に我あり」という教えを突き合わせる。
最近ようやく腹落ち感を感じたものに、「絶対に不変な自我というものは、この世に存在しない」という考えがある。
以前はこの教えと、「我を思う、故に我あり」というデカルトの主張との矛盾めいたものを感じていたため、その折衷はどうなるかずっと考えていた時期がある。
しかし、様々な人のお悩み相談室などの記事を読んでいく内に、ふと気付いたことがきっかけで、この辺をうまく混ぜることができた。
それは、少し抽象的に考えるだけで、僕が自分特有のものとして煩悶していた悩みや不安事は、絶対に過去、他の誰かが経験した普遍的なものになるということだ。
確かに僕は日々悩むこととか不安になることはあるのだが、それがこれまで歴史上一瞬たりとも存在しなかったものであるとは、とても思えないよな、と。
つまり「僕という一個性が、オリジナルの悩みに苦しんでいる」という前提がそもそもヘンなのではと、急に俯瞰することができるようになったのだ。
そして気づいたことは他にもある。それは、僕ら自身の肉体のみならず、心もまた、借り物で構成されているという”事実”だ。
僕らが生まれながらに備えている動作、本能として持つ感情、それらはどこから来たのかを考えると、数万年にわたる進化の集積として遺伝子に刻まれたものだと気付く。
つまり、出荷時には既にある程度のシステムやプログラムが組み込まれたPCと同じで、僕らは受け継いできたそれらを取っ掛かりに、この世と接することになるのだ。
例えば悪口を言われたらムカつくものだが、それは”僕という個人が”ムカついているというより、人間というOSなら大体そう反応するというただそれだけなのだと言える。
僕という唯一無二の絶対的存在が、固有の悩みに苦しんでいる・・わけではなく、その反応は基本的なものとして初期装備されているという、それだけなのではないか。
また、僕に対して敵意のようなものを向けてくる輩が居るとして、それは僕ではなく人間そのものに向けたものだと考える方が正確なのではないか。
最近はそんなことを考えるようになっている。誹謗中傷に”強くなった”というより、それ自体の無意味さに気付いた、という感じだ。
これが仏陀の説きたかったものとどこまで近いのか、或いは無茶苦茶に乖離しているのか、それはまだわからない。だからこれもまた結局、途中経過なのである。
「空性」とはなんなのか。
しかし、まだまだ腹落ちしていない概念もある。それは「空性」だ。あらゆるものは縁でネットワーク状に繋がり、その果としてたまたま現出しているだけに過ぎない、と。
知識としてならなんとか理解できる。僕らの身体を構成する最小単位は元素だと言えるが、それ自体の数はビッグバンの頃から、総数として変化が無いのだという。
それがたまたま、今の形になるまで結合したり分離したりを繰り返し、その偶然によって現出しているのが僕であり、この世界なのだ、と。
それ自体は論理的にギリギリ納得できる。納得できるが、それを認めることから何が始まるのか、或いは何を理解できるのかが、まだ全然理解できない。
ここを一層腹落ちさせるには、仏教から一旦離れて物理の難しいところを学ぶ必要があるように予感しているが、門外漢過ぎる故に尻込みする気持ちも強い。
つまり現在地として、「空性」については完全に勉強不足だ。それゆえに日常生活の中で「これか?」と思うフックにも全然気付かないというのではなかろうか。
救いとなるのは、仏教はわかったら終わりというものではなく、一生を掛けて学び、更新し続けるものだという前提だ。
これからも興味を持ちながら、ゆっくりと学びを進めていければと思う。今はカオスな状態でも、いずれ少しずつ整理され、スッキリした体系が見えてくると信じて。
それでは、今日はこの辺で。