精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

ローマは1日にして成らず。「完成」までの時間と労力を更新する。

自分が目指す校舎や組織、雰囲気がある。だが、そこに到達するまでには明確なタイムリミットがあるし、かつ現状そこに全く至っていないことに焦る気持ちも、強い。

 

どうすれば”如何に早くそこへ辿り着けるのか”をずっと考え続けていたが、そもそもこの問いが正確なのかどうかを、最近思い直している。

そもそも、理念の策定と浸透、企業文化の醸成といった事柄は、そんな短い時間軸で成し得ることなのか。よく考えればダウトだ。

 

僕はこの辺りの考え方がバグっているのではないか。特に秀でた才能を持つわけではないのに、他の人が10年必要な道を1年でできないことに煩悶としているのではないか。

 

今日はそれを起点として、あれこれ考えた話を書いておく。

 

 

ローマは1日にして成らず。1日にして成る傑作は在らず。

 

僕は、そもそも長期間かつ継続的で膨大な労力を必要とする”なにか”を、経験値として持っていない。強いて言えば、受験勉強くらいだ。

 

学園祭実行委員会や、文化祭担当等を経た学生は就職面接で重宝されるが、その理由は今ならすごくわかる。

 

長期間の努力が前提の経験を持っていることは、すごく価値があるからだ。未来のゴールを見据え、淡々と努力し、人を巻き込み、すぐすぐに成果が出ないことに耐える。

 

これ自体は辛いに違いないが、報われれば一気にハッピーなエンドとなる。こういう数ヶ月の継続した努力は、経験しなければ絶対に知恵として身体に染み込まない。

 

いくらノンフィクションを読んでも、僕らはその物語を短期間で読めてしまう。枝葉末節は編集によって省かれて、著者ですら気付かないところで圧縮されている。

 

ドラマの登場人物は、最後はハッピーエンドになることを認識したうえで、その時々の苦労に耐えているわけではない。僕らは結末を知っているが、彼らは知らない。

 

成功させるという意思を持ち、その途上に降りかかるフィクション以上の無理難題に対して、どう身を処すか。これを磨くのは才能というより、単に場数と環境だと思う。

 

或いは、そのプロセスに身を投じている人をどれだけ見てきたかではないかと思う。ネットによってその障壁が破壊された今、僕にもまだ、勉強の機会が多々あると思う。

 

2週間、3週間程度のスパンではまだまだ甘い。とはいえ、3年、4年となれば不確定要素が多すぎて意味を為さなくなる。

 

半年から1年くらいの準備と努力が必要なことを、如何に日頃から意識して、生活などに取り組めるか。これまた折に触れて考えたい問いだと思う。

 

例えば僕は今、頭金を揃えて、中古の一軒家を買うという計画を、割と真面目に考えている。次回のチャンスは、賃貸契約が切れる2年後だ。そこまでにどう貯めるか。

 

もちろん今の職場でブチ抜いた成績を叩き出し、堂々と独立を果たすという夢も持っている。これも最短で年単位の努力が必要な何かだろう。

 

そしてこういう長尺のプランを考えると、その途中途中の目標を隙間時間に立てるような考えも、ぶっちゃけ甘いのではないかと思えてくる。

 

多忙な人はパッパとやっているように見えるだけで、例えば飲み会の席で語り合うなど、ダイナミクスの中で”綿密な”プロセスを練っているものだ。

 

僕はそのダイナミクスがなかなか性に合わない。それこそ山奥でキャンプしながら、じっくりノートか何かと向き合う方が、創造的なアイデアは得やすいタイプである。

 

1日にして成る努力など、成果含めて大したことは無い。ゲームで言う一章単位の計画を自分でこさえて、そのサブクエストまで設計して用意する姿勢。

 

2024年、自分の目標が一つ立ち上った瞬間である。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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