程度の差はあれ、臨死体験を経ると、人はそれまで固執していたことの大部分がどうでもよくなると聞いたことがある。
例えば佐渡島庸平氏は一度心臓が止まったことがあるそうだが、以来人生や世界の見え方・感じ方が変わった、という話を読んだことがある。
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僕もこないだ、急性アル中疑惑の失態をやらかして、死にかけることがあった。それを経て復活したら、なんか今まで以上に世界が凪いで見えている。
結局最期はここに辿り着くのか、という世界を知ったこと、実際とは違っても、心の底からそう思えたことはすごく大きい。そう感じている。
そして科学も煎じ詰めれば宗教や哲学、臨死や輪廻転生に行きつくらしい。今読んでいる章を振り返っても、強くそう思う。
どんどん内側に潜っていくかのような感覚が得られるチャプター、今週も読んでいくことにしましょう。
- 1月8日(月) 言葉の機能とその限界。
- 1月9日(火) 考えているのか、いないのか。
- 1月10日(水) ∞
- 1月11日(木) 科学と数学の似てるとこ、違うとこ。
- 1月12日(金) 超論理的思考。
- 1月13日(土) 証明という旅路、ドラマ。
- 1月14日(日) √2。
1月8日(月) 言葉の機能とその限界。
言葉によって僕らは知識や情報、感情を、他人とシェアできるようになった。しかしそれにもやはり、限界はある。
例えば僕は今、時折胃の辺りに染みるような痛みを感じることがある。ストレスが原因だと思うが、病院にまだ行っていないので、よくわからない。
・・・この説明を通じてあなたが想定した痛みと、僕の抱えるそれは、どこまで似ていて、どこまで違うのだろうか。
言葉に乗せて様々なことを伝えることが、いわば今の僕の仕事だといえるが、言葉の限界を感じる度、口惜しい気持ちは何度も味わってきた。
辞書を開いたり、多くの人の言葉に触れたりと、伝えられない自分、他者のそれを汲み取れない自分に悩みながら、悶々としている。
だが、言葉で全てが伝わると考えることの方が実は傲慢なのではないかと、最近は思い始めている。
例えば身体的動作は、実際にやって見せる方が伝わる情報は多いだろう。言葉はあくまで、この場合、情報を補足するサブのツールとなる。
何を言葉に乗せて、何を別のツールで伝えるか。この線引きには、日々敏感になろうと思う。
1月9日(火) 考えているのか、いないのか。
自分が無意識のときにも心臓は動く。ならば、心臓に意識は宿るのか。心臓移植を受けた人に、ドナーの個性が移った話を聞いたことはあるが、それは真実なのだろうか。
僕の小腸には、脳に次ぐ数の神経細胞があるらしい。僕の腹に仕舞われた長い管は、今も、何かを考えているのだろうか。
犬は飼い主の声や一部の単語を理解するが、税金などの概念は理解しない。これは犬に意識や自我がない証拠となり得るか。
意志疎通の可否が意識的か無意識的かを分けるなら、話の通じない人は無意識であり、それこそ動物と同じなのだろうか?
考えれば考えるほど、僕らはろくに定義付けもされていない何かを区別し、モノサシとして使っていたことになる。
知れば知るほどわからなくなる感覚。本心をいえば、このカオスに思考を置くのは、割と心地よい世界線だと感じる。
1月10日(水) ∞
次の章のサブタイトルは、「INFINITY」、つまり無限であった。
僕ら世代が無限と聞くと、「阿修羅無限大パワー」か「エクゾディア」しか頭に浮かばないが、数学の研究対象のひとつなのだという。
意識とはまた異なった抽象世界がこれから語られる。僕の脳がついていけるか不安だが、原子のとこよりはマシかと、そう思うことにする。
1月11日(木) 科学と数学の似てるとこ、違うとこ。
科学と数学の理論の性質は、似ているようで結構異なっており、色々と興味深い。
例えば科学における理論は、観測可能な現実を正確に説明できる限り、正しいとみなされ、様々な研究に使われる。
ただし一つでも反例が見つかれば、そのモデルは力を失い、新たなそれが取って代わることとなる。
万有引力から相対性理論へ、そして定常宇宙からビッグバンへ。しかしそれらが未来の人類に鼻で笑われない保証は、どこにもないのだ。
一方数学の証明は、未来永劫成り立つとされる。√2が無理数であることが、1000年後にひっくり返ることはあり得ないのだ。
著者が心惹かれたのは、数学には「わかった」「知っている」がはっきりと存在するから、らしい。
懸命に構築したモデルが打ち捨てられる憂き目とは最も遠い学問こそ数学。論理的であることの強さを、実感させられるエピソード。強くそう思う。
1月12日(金) 超論理的思考。
最近ふと思い立って、「幾何への誘い」という本を読んでいる。元々は、単に数学者の人の著作が読みたくて、たまたま見つけた一冊だ。
まだ序盤なのだが、三角形の定義や公理というピラミッドの最下段から始まり、合同の条件の証明に至っており、読んでてすごく興味深い。
数学は抽象概念という気がするし、遠からず近からずなのだろうが、その根底にはとても厳密で頑強な論理がきちんと存在する。
円の直径で円周角を作れば必ず直角になる。これに例外がないことは古代ギリシャに証明されていたように。
そしてそれは未来永劫崩れない。変わることのないと断言できる稀有な存在。それは数学の証明なのかもしれない。
1月13日(土) 証明という旅路、ドラマ。
証明はストーリーであり、ドラマである。過去一度も抱いたことのない解釈を聞いて、「へぇ」という感想を抱いている。
となれば、指導のヒントに使えそうだ。物語自体に興味があると、自然と「遊」の段階を経て、勝手にある程度の技量を身に付けることが可能だ。
しかしそこは個性であり、どうにもフィクションに相容れない人もいる。そういう人にとっては、シンプルに「型」を伝える方がありがたいことも多い。
思えば僕は幾何学の証明ができなかったのだが、できるできないを判断できるほど問題と向き合った記憶がない。
今あの頃に戻れたら、数学で高い点が取れるだろうか。しょうもない”たられば”には違いないが……
1月14日(日) √2。
数の”美しさ”を信奉していた人達にとっては悪夢のような数字がある。それが無理数だ。僕らは中3で習った√をくっつけた数字を、当たり前のように使っているが・・
よくよく考えればこれらは意味不明な数だ。そもそも√2が無理数であることの証明が、非常にトリッキーでわかりにくい。
が有理数であると仮定すると、 は既約分数[注 4]で表すことができる。すなわち、互いに素である(公約数を 1 以外に持たない)整数 M, N を用いて
(1)と表せる。(1) の両辺を2乗し分母を払うと
(2)(2) から M2 は偶数であり、ここから M は偶数であることを示すことができる[注 5]。したがって M は整数 m を用いて以下のように表すことができる。
(3)(3) を (2) の式に代入して整理すると以下の関係を得る。
(4)(4) より N2 は偶数なので、N も偶数である[注 5]。以上より、M, N ともに偶数であることが示されたが、これは M, N が互いに素であるという仮定に矛盾する。ゆえに、 は無理数であることが示された。■
無限降下法を意識した証明だと、m, n が M, N と同様に偶数であるといえ、(1) の右辺が何回でも 2 で約分できることになり、矛盾となる。
読むたびに一応納得するが、すぐに忘れてしまう。つまり潜在意識は納得していないのだろう。
本能に抗う論理とは、なかなかに面白いと思うが、その面白さを十分にはわかれない自分が口惜しい。
では今週はこの辺で。