僕は、どんなリーダーでありたいか。この自問は何度も行ってきたのだが、今日ふと、そのまた別の一面を、明確に言語化できたことを感じている。
だからその記憶が薄れる前に、音声を文字に起こすアプリを立ち上げて、退勤中に運転しながら、その考えを吹き込んでみた。
僕は昔からずっと、どこか厳格で、畏怖されて、カリスマ性を持ち、皆を引っ張っていくというリーダーが至高というイメージを持っていた。
しかし、最近強く感じるのは、それはあくまでフィクションや抜きんでた才能を持つ人の話であり、僕にそれを当てはめるのは、非現実的ということである。
むしろ自分が目指す場所を考えたとき、冷徹でカリスマ性のあるリーダーは邪魔だとさえ感じている。ということで今日はそれを基にしたお話を書いてみる。
僕が目指す校舎を棚卸し。
あまり露骨にすると胡散臭い感じが滲んでしまうが、僕が目指す校舎は一言で言えば、「楽しい校舎」である。ただしここの楽しさは、”Interesting”の意味合いに近い。
今読んでいる本の受け売りでもあるが、幸福度が高い組織は、仕事のパフォーマンスが高いという。これはビッグデータによって、根拠が担保された”事実”なのだ。
だからこそ、成果を出すためには、そもそも雰囲気が楽しい場所を目指す必要がある。それ自体はすごく納得だ。
となれば、クールなリーダーは、その雰囲気に合わない存在なのではないか。朗らかな組織に冷静な長。なんというチグハグさだろうか。
では、楽しい職場を生むのに理想的な教室長の立ち位置とは何だろう。これを考えていくと、端的にまとまるフレーズが頭に閃いた。
それは、格好をつけない、ということだ。これを意識すれば自ずと、明るく楽しい雰囲気を醸成できるのではないか。
この観点こそ、自分が目指すリーダー像の最優先事項として加えるべきポイントなのではないか。今書きながら、少しずつ確信に至っている。
ということでここからは、更にこの考え方を深めるべく、自分の過去を振り返りながら、一層肉付けしていこうと思う。
格好をつけた結果”失った”もの。
僕はいい加減、格好をつける自分を卒業したいなと思う。もちろん、格好をつけたい理由、自分のコンプレックスを認識した上で、だ。
僕が格好をつけてきたこと自体、何かしらが僕にとっての善行だからこそ、それを継続してきたことに他ならない。それを無視して唾棄しても、反発は必至だ。
だから僕自身のコンプレックスを、ここで改めて深掘りしておこう。まぁ、手垢べとべとの思い出話になってしまうのだけれども。
僕は昔から、何を自分に足せば、人並みになれるのか、あるいは人並み以上になって評価されるのか、そればかりを考えていた。
中2の頃に筋トレを始めたのも、すなわちナメられたくないからだ。高校から勉強を頑張ったのも、そうすれば褒められるからだ。
皆が良いと言うものばかりにアンテナを張り、それを目指してばかりいた。そうではない自分を否定しながら、だ。
もちろんそのコンプレックスを糧にして、色んな知識や経験、引いては学びを得たと思う。振り返ればそれは、きちんと有意義な試行錯誤だった。
だがそれが、心の底から純粋に楽しかったか、幸福だったかと言われれば、どうしても疑問符がつく。時が経ってから、振り返り、そう解釈し直しただけだ。
何度も書いているが、例えば僕は【モテる】ことを目的にした努力の一切を、どれほど根を詰めたところで継続することができないのを自覚している。
エスコート、ファッション、自己演出。その全てにおいて、【モテ】を念頭に置いた瞬間から、微塵もやる気が見出だせない。
今でこそそう納得しているが、10代・20代の頃も、薄々これが自分の本心だと悟っている部分はあったように思う。
しかし皆が「あなたに惚れている人が一人も居ないのはおかしいよ」と説いてくる度、その想いを押し殺して、向いてない努力を重ね続けたものだ。健気すぎる話だ。
だが三十路に入り、「好きな人がおるんよね♥️」と言おうもんならどこかキモくなる年齢に入り、そういった声もほとんどすべて消え去った。
仮に時折聞こえても、すごくどうでもよくなった。僕の幸福は、異性にモテることとは全く別の方向にあるからだ。
つくづく思うのだが、僕らしさや、僕の魅力というやつは、体裁という簑を全て引き剥がした後に出てくるのではないか。
もとい、格好をつけなかったら自分はどんな言動をするのかという本心に正直になると出てくるのが、「らしさ」なのではと、超今さら、感じている。
前に別ブログで記事にしたが、僕は最近、異性と話すことに緊張しなくなった。下手なことを話せば見下されるとか、モテなくなるといった恐れが全て飛んだからである。
男として素敵と思われるために演技をするとか、アホくさくて仕方ない。僕に惚れる女性がいたとして、その人はネジが飛んでいるに違いない。
そう納得しているので、気は一切使っていない。それによってがっかりされたとして、俺に何を期待してんだよと、逆に悪態をつきたくなってしまう。
格好をつけない方が幸せだし楽しい。そして案外、僕が楽しそうにしていることは、楽しい組織作りのドミノの1枚目なのではないかと思っている。
となれば、格好をつける理由は一ミリも存在しない。そんなクールさは豚に食わせておけ、と。本当に様になる容姿に優れた人間以外、格好を付ける程滑稽なのだ。
例えば稚気全開の精神年齢9歳男子と、それを愛と冷やかさをもって眺める女子が半々くらいの校舎が、さわやか三組の縮図みたいで楽しそうな気がしている。
やはり、格好をつけず、カッコ悪いことを行ったり、子供みたいなネタで爆笑したりする大人を、僕は心底格好いいと思う。
世間が思うカッコよさではなく、自分なりのカッコよさを、ひいては楽しさを追い求める。どこまでいっても結局そうなんだなと、僕は考えている。
―ではそのために何をしよう?自問自答の質が変わった。心なしかワクワクしている自分が居る。その感情に素直になったとき、どれが一番適しているのか。
そうだなぁ・・・ちょっと男性講師比率が高すぎるから、女性講師にもっと仕事を担当してもらいたいかな。こういう試行錯誤から、全ては始まるのである。
では今日はこの辺で。