折に触れて発信しないと忘れそうになるのだが、僕はやはり、生徒に知識を教えることだけでメシを食い続けることはできないと独り言ちている。
具体的には、どこかできちんと区切りをつけて、前線に立つ講師という生き方を終わらせたい。平たく言えば、引退である。
変わったのは教えることに対する意欲や情熱ではなく、僕自身が一番優先順位を置きたい対象と言える。
生徒の成績を自ら上げるのではなく、生徒の成績を上げる塾、ひいては組織を創ること。それが、漠然としているし、どこか青臭いが、今の僕の夢である。
そのためには、僕が前線に立っている状況は非効率過ぎる。プロ野球チームの監督が選手としてグラウンドに立っているようなものだ。
しかし、そう思ってこそいるのだが、具体的に何からすればいいのか、全く見当がつかない。こうしている今も、自分の身を削って働き、13連勤途上の9連勤目である。
引退したい。だが何をすればそれが可能になるのか。体系化された方法はあるのか。そもそもそれについて腰を据えて考えたことはあるのか。
自問自答すればするほど泥沼になってしまう。まだ若いのだしと、言い訳したい気持ちも湧く。
だがそんなもやもやとした思いが少しだけ晴れるような、そんな記事にたまたま出会うことができた。
今日はそれの紹介と、それを踏まえて改めて思う、引退までの道筋を書いてみたいと思う。
終わりを考えるということ。
久しぶりに覗いてみると、「渋谷で働く社長のブログ」に新しい記事が更新されていた。創業25周年記念の話だったが、なんと最後に社長の引き際について書かれている。
「自分が居なくなっても成長を続ける」「象徴的な社長がずっと変わらないことを避けたい」というメッセージを読むにつけ、その覚悟が伝わってくる気がする。
こういった引き際の話は、「大きな嘘の木の下で」でも触れられていた。社長の力で会社が持っていることは、極めて無責任な状況に他ならない、と。
むしろ、自分が居なくなっても組織がそこに”ある”ことが何より大事なのだ、と。そう指摘されると、にわかに不安が込み上げてくる。
仮に僕がいなくなれば、この校舎は、即座とは言わないものの、瓦解する未来が見える。僕一人しか回せない仕事が、あまりにも多すぎるからだ。
僕は今、何の仕事を抱えているか。それをどのように意識し、処理しているか。それをマニュアルに書き起こすことは、本当に不可能なのか。
自問自答を重ねれば重ねる程、それは「否のはずだ」ということが腑に落ちてくる。そのはずなのに現状そうなっていないのは、僕の怠慢ではないか。
繰り返すが、僕は別に社長ではない。従業員を雇っているわけでもない。バイトの人選と仕事の割り振りを担当しているが、それらは所詮、おままごとである。
ある意味雇われ管理職という立場を考えれば、僕はこうして板挟みに遭っている方が、状況や思考としても自然だし、かつ求められていることだとも、薄々察している。
ただこの状況の先に、僕なりに幸福と思える働き方は待っていないことも悟っている。管理にも指導にも邁進する自分は、つまり疲れ果てて終わりではないか、と。
一本独鈷のリーダーにはなれない。指導だけで飯を食っていくスキルもない。何よりそうする熱意もない。
僕にあるのは、「皆と学びを共有しながら、全員でチームを作って大きな成果を目指す方が、同じ大変でもイキイキと働けそうだよな」という漠然とした思いである。
自分なりの終わりを意識し、考えてみることで、一層現実味を持って考えることができた。僕の講師業のリミットは、あと3年だ。
あと3年。僕なりの理想的な引退と、その後の身の振り方を、これからも模索し続けたい。
では今日はこの辺で。