精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「そもそも僕はどんな働き方をしたいんだっけ?」

”ただの”講師業からの引退をずっと記事にしている。実は生徒にも時々、口にしている。それくらい僕は、今の延長線上に僕なりの幸福や充実が無いことを自覚している。

 

―だが、先日【物語思考】を読んでふと思ったのだが、「どんな仕事をしている自分が理想なのか?幸福を覚えるのか?」という問いを、あまり考えたことが無いな、と。

そもそも僕は、3年以上先の人生設計は無意味だと考えている。将棋で十手先を正確に読もうとするのと同じくらい、意味の有無には懐疑的だ。

 

だが、そもそもそれすらぶっちぎった遥か彼方に理想像を置いておくのは、また別の有意義さを持つのではないか。最近、そんな風に思い直しつつある。

 

だからここで一度腰を据えて、僕が引退した先のビジョンを、「無意味かもな・・」というバイアスを意識的に捨てたうえで、丁寧に考えてみたいと思う。

 

 

「引退」を意識するようになったきっかけ。

 

少し雑多になるが、心当たりを思いつくまま書いていく。僕が最初に引退を意識するようになったのは、確か2年前のことだ。過去記事を漁っていたら、ちゃんと見つけた。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

乱暴に言うと、もっとバリバリ教えたい人はそれに特化して専念していただき、その分手薄になるマネジメント系の業務を僕が引き継いだ方が有益では、という悟りだ。

 

正直、僕の勤める塾は、職人気質の人が多い。ブチ抜いた授業をすればそれでいいと、そういう信念の人が多数派なのだ。別にそれ自体、僕は悪くないと思う。

 

問題は、授業以外の業務を一括して行う人がいないという点だ。誰もが二足のワラジであり、授業は確かに凄いのだが、それ以外が弱いという課題を、実は散見している。

 

もちろんこの仕事の体制は中小ゆえに仕方ないのだが、それゆえに細かいことが向いてない人にそれを必死でさせる・守らせるという莫大なコストが取られている気がする。

 

一方僕は、自分の授業の腕に自信が無いからというわけではなく、そんなにアンバランスな状況であるなら、僕は授業を引退して管理側に回っても良いと思っている。

 

授業そのものから引退して、【場】を創ること、生徒を密に観察して適切なアプローチをすること、保護者と繋がってパイプを構築することに特化していいのではないか。

 

繰り返すが中小ゆえ、どうしても状況に応じて肩書や仕事内容をコロコロ変えなければならないのが実情だ。教室長になった今も、その自転車操業感は変わらない。

 

しかし、苦手な人はどうしても抜ける。その際フォローに手間取られ、僕自身の”授業”もおろそかになっている今、不健全な体制であることは否めなくなっている

 

皮肉なものだが、講師として広い視野を獲得しようとすればするほど、売り物としての【授業】は氷山の一角に過ぎないことを悟る。

 

同時に、水中に潜む見えない要素の桁外れの大きさがまざまざと感じられてくる。僕はそこをもっと知ることで、講師としてまた別の目線やスキルを獲得したい。

 

皆、自分がプレイヤーであることに慣れていて、そして慌ただしくも生徒と直接触れ合う日々が、そして指導を傾聴してもらえることが、好きなんだと思う。

 

僕もその時間は全く嫌いではないのだが、かといってそれを仕事の最優先事項に置くほど好きかと言われれば、「いいえ」と答えるこの本心に気付いたのが、2年前だ。

 

その後、自分なりに手応えを持って作ったモノがくそみそに言われる経験がありながら、「じゃあ文句ないほどのモノを作ったるわ!!」・・と思わなかったこともある。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

僕より授業が好きな人。僕より授業が上手い人。僕より生徒に好かれる人。僕より勉強ができる人。そんな人だらけの中、僕が先陣を切って勇ましく進むのは、滑稽だ

 

そういうある意味での”さとり”を開いたことが、僕の言う”引退”のきっかけになったということは、改めて認識しておきたいと思う。

 

僕が創りたいのは【場】である。

 

原体験と呼べそうなほど強い記憶が一つある。それは成人式の日、振袖姿・紋付き袴姿の生徒が何人も遊び来てくれたことだ。

 

成長した姿に目頭が熱くなる・・・ということは特になく、僕はその華やかさと懐かしさの裏で、静かにこう考えていた。

 

「ここに校舎が、場が在ることに意味があるんだなぁ。”在ること”に、俺は責任を負っているんだなぁ。」

 

・・・これが本心だ。僕はどうしても自分が授業をしている裏で、数年後にこの場所が無くなっているのではないか、という危惧をずっと抱いている

 

だから逆算する。潰さないためには何をしなければならないか、考えた。そしてそのとき暫定解で出したのは、僕が前線で授業をしていてはダメだ、という結論である。

 

その理由は先述の通りで、【場】を見ている人がいないためだ。「授業さえしていればいい」という考えの人はいるが、それが危ういことはとうの昔に悟っている。

 

何をするかは、二次的な問いだ。まずは【場】という、心理的安全性がしっかりと担保されたプラットフォームありきで考えるべきではないか。僕はどうしても、そう思う。

 

しかしその話をしても、僕が口下手なのか、それとも落ち込んでると思われているのか、まともに取り合ってもらったことは無い。じゃあもう、行動で示すしかない

 

断言するが、僕は生徒に授業をするより、【場】を創ることに頭を使う方が、実は楽しいと思っている。

 

これは両方とも好きなのだが、相対的に考えれば後者ということである。「Which do you like better?」という問いなのだ。

 

元々はこれを究極的に己に課すための独立という目的だったのだが、巡り巡って既存の校舎を引き継ぐことになり、いわば試運転期間ができたということは、前にも書いた。

 

その期間を通じて、僕が頭に浮かべている理想が本当に実現したら、それは楽しく満ち足りている日々なのかをシミュレートしている。手応えは、よくて半々だが。

 

たまにふと手を止めて想像する。

 

僕は独り、事務作業の机に腰掛けている。個別授業を実施している部屋からは闊達な声が聞こえてくる。次々に生徒が自習に来て、入れ替わりに帰っていく。

 

駐輪場は自転車がいっぱいで、小学生から高校生まで分け隔てなく通ってくれる。合格の報告、就職の報告、成人式の挨拶、その全てが絶えることなく耳に届く。

 

こういった日々を目指して仕事をすることは、本当に楽しいのだろうか。恐らく、達成したらしたで、僕は数日で飽きている気がする。

 

上手く言葉にできないが、僕が理想として頭に描く日々は、ある種の完成したものではなく、むしろ途上の一場面を切り取ったものであるべきなんだと思う。

 

博物館や美術館が、その”完成”を永遠に迎えないのと似ている。変化が絶えず起きていて、あらゆる学びに触れられる校舎。やはり僕はこれを”創りたい”

 

では、館長自ら筆を握り、彫刻刀を持ち、芸術作品を作っては並べるというモデルはどうか。これは、僕が前線で授業を行うことと、同じ光景だと思う。

 

だが、それは美術館ではなくアトリエだろう。そして僕は、それを創ることに興味は無い。僕の価値観ではなく、あらゆる学びの集合する場所の方が眩しいからだ。

 

・・やはり、僕がしたい働き方は、考え続けるといずれやはりここに収れんする。

 

あらゆる学びが集まり出会える【場】を創ることが、僕の講師としての最大の目的で理想。

 

そのために、僕はどうあるべきか。それを日々考えては実行し、少しずつそれに近づいていくことが、僕の理想の働き方には間違いないだろう。

 

改めてそう思えた。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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