「無限」という言葉にはロマンを感じる。だが、その摩訶不思議さに思いを馳せたことは、そういえば一度もない。
知らない人には意味不明な話だが、遊戯王に出てくるエクゾディアの攻撃力は、漫画だと「∞」と表記されている。
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ルール上、戦闘で表側攻撃表示のモンスターを破壊したら、上回った攻撃力分だけ、相手のライフポイントを削ることができる。
仮に攻撃力3000のモンスターをエクゾードフレイムで葬った場合、相手には∞ー3000分のダメージが入ることになるのだが・・・この計算結果はなんなのか?
素数は無限にある。偶数も無限にある。奇数も無限にある。円周率は無限に展開する。無限とは身近でありながら、考えれば考える程闇の世界に落ちる気分だ。
宇宙というより深淵や奈落と書いた方が正確に聞こえる無限の世界。その一端を、今週も覗いていくことにしよう。
- 1月15日(月) 「ある」として・・・・
- 1月16日(火) 考えること自体を目的として。
- 1月17日(水) アホでも難問を生む方法。
- 1月18日(木) 文字通り、”知能が”足りない。
- 1月19日(金) 「なんで?」の果て。
- 1月20日(土) 「この文は嘘である」
- 1月21日(日) 「証明できない問題があることを証明した!」
1月15日(月) 「ある」として・・・・
数学者の思考は、厳格なのか柔軟なのか、ときにわからなくなる。
例えば、僕が不思議と好きな数に、「虚数」というものがある。この誕生秘話が、なかなかにキテレツだ。
Xの2乗=-1
これを満たす数は、「ない」として良さそうなものだ。つまり、解答不能なのだと。
しかしこの数を「ある」として思考を始め、結果出来たのが虚数という概念だ。当初はデカルト然り、意味不明なこの数に対し、反発する学者も多かったという。
だが今となっては虚数がなければ飛行機も飛ばせないというほど、現代社会に深く関わる数となっているらしい。
答えを生み出してそこに現実を合わせていくパワープレイ、さすがだなと思わされる。
1月16日(火) 考えること自体を目的として。
古代ギリシャにおける人気?の研究対象が「幾何学」というのは、よくよく考えると親和性を感じる。
哲学とは、解がない問いを論理的に考え続けて、何かしらの答えに達することだと思う。
幾何学もまた、それについて書いた本を読むにつけ、極めて論理的な学問だと僕は考えている。
公理から始まり、「ならば、ならば」を重ねて、気づけば中学のときに丸暗記した合同条件に至る。
子供の頃にこれを楽しめるおつむがあればなぁと、やっぱりどうしても、悔しく思うときはある。
1月17日(水) アホでも難問を生む方法。
素数と無限が伴えば、アホでも秀才に解けない問題が作れるという。それ自体は誇張でもなんでもなく、その通りだと思う。
実際、双子素数は無限にあるかなど、シンプルなのに全く解かれていない問いは、Wikipediaに多々まとめられている。
いずれも、問いの主張自体は理解できる。だが解くとなると何をどうしていいかが見当もつかない。
例えばフェルマーの最終定理も無限に関する未解決問題だったが、これの解決には何人もの卓抜した数学者の知恵と、350年という時間が必要だったように。
中には素数について考えすぎて精神を壊した人さえいる世界。僕はほどほどにしておこうと、改めて思った。
1月18日(木) 文字通り、”知能が”足りない。
くらくらするようなメタファーがたくさん登場する章だ。それは、いくら桁外れの大きさだろうが、無限を有限というフレームで考えることの不毛さを教えてくれる。
僕ら男子は得てして、大きい数の単位を算数の教科書で知ると、それを意味もなく暗記するものだ。
僕も未だに淀み無く言えるくらい、ナユタ、フカシギ、ムリョウタイスウは大好きだった。
しかしそれらの単位を、更にそれらの単位乗(ムリョウタイスウ×ムリョウタイスウのように)しても、無限には全く届かないのだ。
数学は終わりもない、勝ち負けもない、ルールも時折曖昧で、なんなら解けない問題が存在することさえ、証明されている。
この辺りが好きな人はヒルベルトの無限ホテルのパラドックス辺りを調べてみると、心が躍るかもしれない。
一応、リンクを載せておく。
1月19日(金) 「なんで?」の果て。
数学の論証を始める際の最小単位は「公理」と呼ぶらしい。これは、根拠もなく認めないと話が始まらないあれこれだ。
「幾何への誘い」によれば、「それはなんでですか?」という問いを幾重も繰り返し、「そういうもんだ!」というしか無くなったものが、「公理」なのだという。
そして二千年近く公理とされてきたものも、時としてそれが成り立たない世界があると気付く人も、中には出てくるという。
ユークリッドが打ち立てた幾何学の公理は、地球儀のような球体上では成り立たないように。
つくづく、安心や安全なんてのは神話に過ぎないんだなと、特に驚きもなく、僕は受け止めているけれど。
1月20日(土) 「この文は嘘である」
パラドックスが好きな人は多い。僕もその一人だ。言葉遊びを超えた面白さと不可思議さがそこにはあると思う。
しかしこれが、「数学は無矛盾である」といった学問自体の根幹を揺さぶる、悪魔のような考えというのには驚いた。
パラドックスの言及や登場は19世紀の終わり頃からなされるようになり、やがて数学的な証明にも噛んでくるようになったという。
数学の公理では証明できない問題が必ず存在する。これを土の下で聞いたとき、あの世にあるヒルベルトの魂は、一体何を思ったのだろう。
1月21日(日) 「証明できない問題があることを証明した!」
数学の公理では証明できない数学の問題があることは証明されている。
自分でも頭がおかしくなりそうな話だが、どうやらそうらしいし、それが受け入れられてもいるという。叡知が拗れている気がする。
とはいえこれは、例えばこれまでの公理は無駄で、それまでの証明は意味を成さない、ということではない。
これからも同じ弧から作られる円周角は等しいし、三組の辺がそれぞれ等しければ合同なのだ。
変わることのない公理の上に定理を重ね、不変の心理にたどり着き、名を刻む。数学ならではのドラマ性を、トリッキーな観点から再認識する、面白い話だと感じた。
では今週はこの辺で。