数学は厳密であってナンボだと僕は勝手に考えていた。例えば無量大数の桁まで成り立つことがコンピュータによって確認されようが、無限が証明されたことにはならない。
素数が無限にあることは証明されているが、例えば双子素数が無限にあるのか、完全数は無限にあるのか等、その辺りは未解決のままなのである。
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―しかし、厳密であることが行き過ぎると、今度は逆に、微差な数値の違いが、結果に対して大きな影響を与えてしまう、カオスの世界に突っ込んでしまう。
それこそ、明日の天気を求めるために、気流・地球の自転・湿度・気温・海流などなどを計算に放りこむようなものだ。
そんなことをするよりむしろ、その人の人生のカンや、過去のデータを見て「こんなもんだろう」と思う方が、案外当たることもある。
曖昧と厳密の間。いちばん未来を見通せるのはそのくらいの位置かもしれないという指摘は、僕にとって新鮮である。
そんなカオスの話、まだまだ続けてみよう。
- 8月28日(月) 究極のカオスとは。
- 8月29日(火) つまり、わからない。
- 8月30日(水) どうしても、わからない。
- 8月31日(木) 神が生命をつくりたもうた、のか?
- 9月1日(金) フラクタルツリー
- 9月2日(土) 水星は蝶の如く
- 9月3日(日) 思ったよりカオスではないけど十分にカオスではある
8月28日(月) 究極のカオスとは。
カオスを端的に表現する、面白い小話がある。
「銀河の端っこの動きや、原子の性質を予測する方が、三週間後の日曜日は晴れるのか雨が降るのかを予測するよりはラクだと思える」
凄く納得できる。しかし、これがなぜその通りだと思えるのか。おそらく、前者は知見が及ばないゆえにシミュレートに使える材料が少ないからではないか。
一方後者は、手触り感をもって研究や調査ができるため、あれもこれもと、未知数をたくさん入れたくなってしまうのだ。すると予測が不可能になる、と。
それで言えば、実は僕ら人間もまた、一つのカオス理論である。しかも、その極致と言えるかもしれない。
僕らは一人一人が、いつ止まるかも全くわからない、面の数すらバラバラの、高速で回転するサイコロのようなもの。数学的モデルにすることが不可能なのだ。
では歴史を学べば、予測は可能なのか。しかし、歴史自体もまた、膨大で広大なデータベースであり、それこそ無限の未知数をそこから取り出せてしまう。
僕らの振る舞いは、実は数学と相容れない存在。そう思うと、どこかおかしくも、盲点を指摘されたかのような気持ちになる。
8月29日(火) つまり、わからない。
未来を予測するには、それはあまりにもカオスであり、とはいえ過去の世界にどんなIFがあり得たのかをシミュレートするのも、同じくらいカオスである。
例えば僕は今からくしゃみをしたことが原因で、巡り巡って他所の国でテロが起きることに繋がることはあり得るのだろうか。
また、吉田松陰が幕府に赦されていたら、その後の日本はどう展開したか、それをシミュレートすることはできるのだろうか。
考えれば考えるほど、無理だしわからないと思えてくる。僕自身の癖である「考えすぎ」が、無駄な徒労のように、数学の側からも言われている気分だ。
過去も未来も存在しない。あるのは現在だけ。
哲学や仏教の言葉に聞こえるが、これは数学的に考えてもそうなのではないかと、よくわからないことを今は考えている。
8月30日(水) どうしても、わからない。
進化論の有名な一例は、キリンの首が長い年月を経て伸びた、という説だろう。例えばこれを、確率論的に表現するとどうなるか。
原始の時代、首が短いキリンしかいない世界を想像しよう。このキリン一頭一頭に対し、神がサイコロを振るとする。
そして1~5の目が出たキリンは、首の長さが据え置きか、なんならちょっと短くなる子孫を設ける。6の目が出たキリンは、おめでとう、子孫の首がちょっと伸びる。
そんなゲームが裏に潜んでいるとすると、今のキリンの首の長さは、1/6が何百乗も掛かった数値の集積という風に思えてくる。それこそ眩暈がしそうな話だ。
無限の猿定理みたく、必要十分な時間さえあれば何事もその内実現するという世界は、なんか頷けるものがある。
・・・ただ、ここには面白いジレンマもある。例えば、神のサイコロが、首が伸びる伸びないでピッタリ半々で振られたら、どんなキリンになっていたのだろうか。
つまり、進化論のIFを考えようとすると、その手掛かりがあまりにも少ないがため、イマジネーションさえ及ばないという壁が存在してしまうのだ。
ネコという動物。イヌという動物。進化の樹形図を逆に辿り、序盤で何か違う要素が入ったとすれば、今のネコとイヌはどんな造形になるのか。
あまりにもカオス過ぎて、想像が及ぶとか及ばないとか、そういう問題ですらない。取っ掛かりすら無いものは、僕らでも想像できないんだと、改めて実感した。
8月31日(木) 神が生命をつくりたもうた、のか?
どんな文脈か忘れたが、生命が誕生する確率は猛烈に低く、6の66乗分の1くらいじゃね、と言う人もいるそうだ。
どれくらいの数かピンとこなかったのでChat-GPTに聞いてみたところ、
2,981,896,983,782,652,449,303,203,776,000,000,000,000,000,000,000,000
という数が返ってきた。ちなみにこれは約298溝であり、日常生活で使うことなどまずないくらい、超巨大な数を表わす単位なのだという。
ちなみに1分に1回チャンスがあるとして、例えば5億年は約2兆6280億分くらいらしいので、全く試行回数が足りないことがよくわかる。
しかし、1分に1回のチャンス頻度だとして、それが広大な地球で1回きりというのは考えにくい。となればやはり、必要十分な時間があれば、いずれそれを引けるようだ。
神の存在を引き合いに出す必要はない。必要十分な時間さえあれば、いずれ引き当てるのだ。
数学者らしい(あるいは物理学者らしい)考え方だと思うと同時に、あまりにも巨大なスケールの話過ぎて、思考が追い付かない自分がいる。
9月1日(金) フラクタルツリー
Interactive Fractal Tree of Life Zooms In On Earth's Entire Evolutionary History
進化論の際限がカオス理論的な性質を持つ。それだけでも理解が全く追い付かずに大変なのだが、ここへきてさらに「フラクタル構造」なるものの話が飛び出してきた。
とてつもなく乱暴に言えば、これは拡大や縮小を繰り返すと、似た形が延々に繰り返されるような図形や構造を指すとされ、海岸線やマトリョーシカがその一例だとされる。
そして生物の進化は、このフラクタル構造のようなものであり、今自分たちが居るのは、進化という巨大な木のどこの枝なのか、同じ見た目ゆえわからないそうである。
例えば人類を再現するために、進化の歴史を記したテープを再度回してみると、奇妙奇天烈な何かに行きつくかもしれない。むしろそちらの可能性の方が極大なのだ。
僕には美的センスとか数的美しさなど微塵も備わっていないのだが、このフラクタル構造や、或いは黄金比には、何か人智を超えた凄さを感じ取っている。
それらが不思議な魅力を纏うのは、人類には理解できない何かゆえなのか。そう思うと、本当に意識が遠くへ行ってしまいそうだが、どこか快い気持ちも抱かされる。
9月2日(土) 水星は蝶の如く
わずかな数値の違いが、結末の劇的な変化をもたらす。さながら蝶の羽ばたきが、別の場所の竜巻の遠因になるように・・。
そしてその”蝶”に当たる存在は、太陽系にも存在するという。それは水星だ。水星の振る舞いが少し変われば、僕らが住む系の終末が、丸ごと変わってしまうらしい。
それこそ軌道が狂うとか、あれとそれが衝突するとか、等々。意外と、デカいだけで密度が小さい土星や木星は、あまり太陽系全体に影響を与えないらしい。
最も内側にある、比較的小さな天体が、巨大な惑星が連なる系の運命すら変えてしまう。なんと壮大で、想像力の埒外にある話だろうか。
9月3日(日) 思ったよりカオスではないけど十分にカオスではある
サイコロの話に戻る。水星とかそういう規模がめちゃくちゃなやつはさておき、サイコロ自体は、それに比べたらカオスではないという話らしい。
超ハイスピードカメラで撮影すると、例えば机の材質、落とすときの角度、速度などが影響を与えるとされるが、それは惑星運動に比べればはるかに少ない。
なるほど、なら予測可能だ。
・・・とはならないのが数学である。僕みたいなオンチにとっては、リーマン・ゼータ関数よりかは不定積分を解く方が簡単だよ、と言われるようなものである。
例え要素が減ろうが、それは十分にカオスであり、計算による精緻な予測を相変わらず拒み続けている存在には違いなさそうなのである。
―ということで今日はこの辺で。