精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

人事を尽くして天命を待つという言葉の、僕なりの解釈。

最近の身の処し方として、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉を強く意識している。どちらかと言えば、自戒の意味が強いのだけれども。

 

具体的には、現状について時折、「俺は人事を尽くさずに、ただ天命をお祈りしながら待っていないか?」と振り返るようにしている、という感じだ。

 

今日はそんな話について、思うことを棚卸ししてみる。

 

 

あくまでも”人事を尽くして”から、天命を待つ。

 

僕は去年から、ある有名な方のオンラインサロンに参加している。とはいえ僕はROM専で、その活動をひたすら読みながら、自分の仕事に転用できるモノを探している。

 

その働きぶりや信念は、もはや狂気というか生きざま自体が一つの巨大なエンタメと化しているのだが、その中で特に強く、何度も念押しされている教えがある。

 

それは、準備が整ってから行動することの愚かさだ。仕事ぶりを見ていても、正解を見出したら、それに現状をパワーで合わせていく、という言い方がしっくりくる。

 

見切り発車上等、理想のゴールを描いて、理想の準備を想定し、それが揃うまで待つ・・ということは本気でアホだと、何度も行動で示されている。

 

もちろん、準備ができていない状態で動くことにすごく抵抗があるのは、本能だけじゃなく、そうすると評価が下がった長年の学校教育も遠因になっていると思う。

 

しかし現代の仕事においては、教科書知識の暗記や運用は結構どうでもよくて、むしろ過去の延長を辿りながらも、変化の兆しが見えたら即対応することが鍵となる。

 

レベルが足りなければ、上げればいい。ダンジョンの構造がわからなければ、手探りで冒険するか、地図を探してきて入手すればいい。

 

こう考えても、「人生はRPGだ」というのはゲームのキャッチコピーではなく、ある種の真理なのではないかと、最近は本気でそう思うようになっている。

 

何ならむしろ、天命を待つために人事を尽くしていたら勝手に結論なり目標地点なりに辿り着いていました、ということも往々にしてあり得ることだと感じている。

 

これも自分の中に一つ面白い体験談がある。未プレイの人にはさっぱりだが、そのまま書いてみる。それは、ドラゴンクエストⅤをプレイしていたときのことだ。

 

ラスボスの前に、ある種因縁の深いボスが立ち塞がるのだが、初見で僕は状態異常を防ぐ術を持たなかったり、そもそものレベルが足りなかったりで、完敗した。

 

そのためにどんな布陣が必要か考えた僕は、キラーマシーンを仲間に加えたいと考えるようになった。

ドラゴンクエスト5、キラーマシンを仲間にしました。 - ゲームとお食事だけして生きたいな。

 

しかし当時持っていた情報は、「とても仲間になりにくい」ということだけだ。ちなみにさっき調べたところ、なんと1/256だという。絶対今ならやらない確率だ。

game8.jp

 

だからそこから、滅茶苦茶頑張る羽目になった。1週間かけて毎日毎日飽きもせず、ひたすらキラーマシーン(と同時に出現するモンスター)を狩り続ける日々・・。

 

気付けばギガンテスとグレイトドラゴンが仲間になり、全体のレベルも滅茶苦茶高まり、何故かゴールドもめっちゃ溜まり・・・

 

その後無事キラーマシーンを仲間にできたとき、PS2版だったので狩った数を数えられるのだが、なんと900体を平気で超えていた。

 

ここで冷静に考えたい。僕はその忌ま忌ましいボスを倒したいがためにキラーマシーンが仲間に欲しかった。

 

しかしそれを仲間にするために雑魚敵を狩りまくった結果、キラーマシーンが居なくても圧勝できるくらい、強い仲間が入ったり、勇者が強くなったりしていたのだ。

 

人事を尽くそうとしたら勝手に天命が果たされていた。ちなみにラスボスも裏ボスも超絶圧勝できてしまったので、不思議な話だと感じる。

 

こんな風に、”天命”そのものを果たすのに、確かに運の要素は否定できないが、そこに近づくため現状の手持ちで”人事”を尽くせば、勝手にレベルが上がることが判る。

 

いわゆる行動が早い人は、何もしないことが最たる機会損失だと皮膚感覚で分かっているのではないか。そう考えてみると、彼らの言動に一本筋が通っているように思う。

 

天命をいきなり待っていないか。人事をできることから尽くそうとしているか。このことは折に触れて、自分に問い続けたいと思う。

 

では今日はこの辺で。

 

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