精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

"毒感情"を止めるのではなく、解毒するシステムを自分内外に設計したい。

組織単位か自分事か関係なく、ネガティブな感情への身の処し方は、熟達を必要とする達人的な技術のように思い始めている。

 

これらの感情はそもそもが好ましくないとして、発生自体させないよう悪戦苦闘する人が多いのだが、僕はもうそれは諦めている。不可能だ

 

その理由は、感情とは人間が進化の過程で獲得してきた本能であり、つまり必要だからずっと残っている一種のシステムだからである。

 

感情を理性で消すことが極めて難しい理由はここにある。潜在意識よりもさらに深いところにそれはあるため、一生を掛けても制御できないことの方が多い。

 

親鸞さまでさえ、修行の果てのそういう欲は消せないと諦めたほどだ。だから、感情自体を消すのはフィクションの世界に任せて、もっと現実的に考えたい。

 

今日はそんなお話である。

 

転ぶので杖を持て。

 

繰り返しになるが、嫌悪感といったネガティブ感情は、それ自体本能が必要とするからこそ残ったものであり、発生源自体を消そうとするのは本質的にずれている

 

むしろそれによって思考がヘンな風に歪み、極論だが「恥」の感情を打ち消した結果、他者への迷惑を慮ることができなくなることもあり得そうな話だ。

 

やはり大事なのは、そういういわゆる悪感情が生じたときに、そのことをすぐ認知し、無駄な二の矢を受けないよう意識をさっさと切り替えることだ。

 

「自分は今、恥なり嫌悪感なりの悪感情に支配されている。」不思議な話だが、感情にジャックされた状態では、その状態にあることさえ意識するのが困難となる

 

車を運転している際に、自分が時速60㎞以上という、いわば異常な速度で移動していることを自覚することが無いのと似ている

 

しかしその際も、例えば窓を開けて猛烈な風を吹き込ませれば、それに気付くことができる。これに似たアプローチを、思考に対して、行えるかどうか。

 

その上で、仏教哲学の「慈悲喜捨をもって、悪感情を解毒する。もちろんこれ自体非常にアバウトで言語化が追い付いていないので、まだまだ試行錯誤が必要だが。

 

さて。まだまだ個人レベルでも全く具体的な行動が浮かんでいないのだが、仮にこれをシステム化できて、組織内に波及できれば、それは素晴らしいのではと予感している。

 

真の幸福は能動的に働きかけた結果生まれるもの。【予測不能の時代】を読んで、僕はそんな希望に溢れるメッセージを受け取っている。

祈るだけで皆が幸福になるなら、これほど楽な話はない。繰り返しになるが、組織全体の幸福とは、能動的な働きかけによってなされるのだ。

 

そのためには、切れるカードは多い方が良い。そしてそのカードを集める手段は、とりあえず自分の身体で実験して知見を集めるのが手っ取り早いのではないか。

 

例えば日報の形式を工夫して、各々が自分の感じた感情・情動を客観視できる枠を設けるとかどうだろうか。僕自身、感情の解像度を上げて、良いことが色々とあった。

 

教育業は、メンタルケアが脆弱だと言われる。旧態依然とした精神論によって、「いいから頑張れ」の一言で、教員の労働環境は後回しにされ続けているとさえと言われる

 

先生から生徒へのケアは重要だと説かれながら、先生へのケアの重要性は一部の人からしか声が上がっていない印象だ。それは僕自身、今の会社の弱点だとも感じる。

 

ただ教科書に書いてあることを教える、定期テストで点を取る術だけを教える、そんな塾講師。そんな代替可能な講師を、僕は引退することに決めている。

 

メンタルの観察と改善は、そのための一助に間違いなく繋がるだろう。そう信じている。

 

ということでやや散文的になったけど、今日はこの辺で。

 

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