急になんだという話だが、さまざまなフィクションにおいて、キャラクターの中に、理性で制御できない別の人格が宿っているといった設定がよく見られる。
最古の例を僕は知らないのだが、これを「もう一人のその人」と呼ぶのなら、遊戯王や犬夜叉といったメジャーな作品にも、非常に多く採用されている設定である。
これについては、厨二病云々を抜きにしても、似たようなことが僕にも起きるなと、そんなことを考えている。
人間だれしも、もう一人のボクのような存在を抱えているのだろう。それを科学的に言えば、「扁桃体」に彼は宿っている、とでもいうのだろうか。
つまり、それは感情だ。感情に取って代われたとき、人は別人のように憤慨するし、慟哭するし、拒否する。自分という器を乗っ取られたと言っても過言ではあるまい。
今日はそんなことを起点に、思うことをつらつらと書いていく。
もう一人のボクとは誰か?
ここで言う「もう一人のボク」をどう定義するか。僕は、プルチックの感情の輪の中で最も中心に近い基本感情それぞれがそうなのではと、今は納得している。
実際、時折自分がコントロールできていないほどの強い感情を感じることは、30歳を過ぎた今でもそれなりにある。
例えば、対象は様々だが強い嫌悪感を覚えてしばらくそれが持続したり、慌てているときに法定速度以下で走る車に苛立ったり、器の小ささが目立つが、それは様々だ。
そしてそういった感情に支配されるモードが終わってみれば、考えることはほとんどいつも同じだ。「なんであんなことした(思った)んだろう?」である。
生存のために必要だからこそ残った感情というのは理解できるが、あまりにも強すぎるそれらによって、健やかな日々から時たま引き剥がされるような感覚も抱く。
ただしこれらはいずれも本能だ。仏教用語で言えば阿頼耶識の域に潜む、何万年もの生と死が得てきた知恵の蓄積によって、生まれながらに脳に刻まれたシステムである。
その叡智に、一個人の理性で挑むのは、露出した地層を拳骨で破壊しようとするくらい愚かなのではないか。そう思うことさえある。
昔から(特に本をたくさん読むようになった22歳頃から)、僕はこの本能自体を厭い、それを発動させない術や、完全に制御する方法を探し続けてきた。
しかし10年以上を費やして、薄々悟りつつある。時折記事にも書いているが、やはり、「そんな魔法は無い」というのが、現実のようだと。
だからこそ、こういった「もう一人のボク」という強い感情は、消すのではなく、活用する方法を模索したり、或いは受けたダメージを癒す術を考えたりする方が建設的だ。
例えば仏教哲学においては、三毒(貪瞋痴)を解毒するものとして、慈悲喜捨を掲げている。これは、貪瞋痴自体を消すのではなく、貪瞋痴の”毒”を癒すものだ。
その薬を使うためには、そもそもまず、自分が悪感情に支配されていることに”気付く必要”がある。その端緒となるのがマインドフルネスや科学的な知識だ。
特にネガティブな感情を司るという扁桃体のパワーは本当に強力だ。だが、ジャックされている状態に気付けさえすれば、視野は一気に広くなる。
もちろん、ここぞというときにはそういった感情を敢えて爆発させて、もう一人のボクに出張ってもらうのもアリだ。懐刀さえ捨ててしまえば、それはただの腑抜けである。
嫌なものは感情剥き出しで徹底的に嫌っていいんだし、辛いときも感情剥き出しで悲痛さに浸っていい。許せない相手や場には徹底して戦ってもいいのだ。
―大体の物語において、主人公がもう一人の自分を制御する際のプロセスは、結構似ている。意外と、そのもう一人の分身を叩きのめすことは少ない。
そうではなく、それ自体をしっかりと固有のものとして認識してあげて、愛を持って受け止めることが、非常に多いパターンだと感じている。
対抗する限り、もう一人のボクは永遠に敵なのかもしれない。そんなのが最初から脳に居るのかと思うと、面白いと思うと同時に、少し気味の悪ささえ覚えるけれど。
ということで今日はこの辺で。