5億年ボタンを押すか、押さないか。この思考実験?のようなものがいつ登場したかわからないが、僕は怖いので押さないことに決めている。
5億年とは無限に感じられるほど長い時間であるが、上限があるが故、いつか終わることは確定している。途方なく大きい数か、無限かは、これくらい違うのだ。
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僕の命は有限だ。しかも宇宙から見れば、泡ができて弾けるまでの期間より遥かに短い。僕がこの宇宙に為せることは、究極、無限に小さいのだと思っている。
インフィニティ。無限。どう書いてもしっくりこない世界。頭がおかしくならないよう留意しつつ、読み進めたいと思う。
- 1月29日(月) 数を知ることはなんと楽しからずや。
- 1月30日(火) 数を知ることはなんと楽しからずや。
- 1月31日(水) 無限をのぞくとき、無限もまたこちらをのぞいている。
- 2月1日(木) 知の果て。
- 2月2日(金) 僕らは知っているのか、知らないのか。
- 2月3日(土) 神の問いに答える。
- 2月4日(日) 過ちて・・・・
1月29日(月) 数を知ることはなんと楽しからずや。
整数自体を研究する。この言葉を僕はずっと不思議に思っていた。それは金にならないのでは、という思いがあるから、というのも理由の1つとしてあるにはある。
ただ、数とは計算できたり数えたりできればそれでいいものであり、純粋に知の追求の矛先として、なんかずれてると感じていたためだ。
もっとも、僕自身も「数」が持つ不思議な性質に魅せられる部分はあったが、整数論全体としてはさほどでもない。(むしろ苦手)
しかしこの本に出てくる研究者たちは、なんと喜怒哀楽むき出しで、数そのものと向き合っているのだろう。
狂気なのか狂喜なのか、そのどちらとも言える気がしている。
1月30日(火) 数を知ることはなんと楽しからずや。
「あるとも言えるし、ないとも言える」という答えにするしかない問題が、"数学に"存在する。
こういうふわふわしたことが、厳密なロジックで裏打ちされることがあるのが、数学の不思議なところだと思う。
既存の公理では証明できない問題があり、公理を拡充しても必ずはみ出しものがでる。
おまけに「どっちでもいい」が解になることもあるときたもんだ。
厳密の果ての答えに曖昧はあり得る。どこかすごく興味深い教えが内包されてそうな、そんな例だと思わされる。
1月31日(水) 無限をのぞくとき、無限もまたこちらをのぞいている。
かつて神の領域だと考えられていた無限を、カントールは暴く権利を授けられたと言えるという。
しかしその一端を垣間見ることができたのは間違いないとしても、無限が絡む問題はやはり、名うての数学者でも手が出ない難問揃いなのだそうだ。
例えば、メルセンヌ素数は無限にあるのか、リーマン予想は正しいのか、などなど。これらは依然として、神の領域にあると見ていい。
今後僕は、軽々しく「無限」という言葉を使うのに抵抗が出そうである。それくらい重い話が続いた章だったと、すごく思う。
2月1日(木) 知の果て。
どうやら本書も最終章に入ったらしい。カオス理論、量子力学、意識……全ての謎が改めて登場している。
人はこれまで、神の見業とされた未知の世界を切り開き続けてここまでの進化を遂げて来た。
今や生命のコントロールや、無限世界へのアクセス、果ては新たな知能の創造というところまで、その進化は止むこと無く起き続けている。
このプロセスはロマンなのか、それとも広義で人類破滅のシナリオの1つなのか。それを判断するには、僕の人生はあまりにも短いとしか思えない。
2月2日(金) 僕らは知っているのか、知らないのか。
すごく興味深い問いが紹介されていた。それは、既知の事柄は未知の事柄より多いのか否か、だ。
これについては定義自体が困難である。マクロな目線に立てば、学問として体系立てられ、解明されたことは、確かにとても多くなる。
しかしミクロになればあっという間にフラクタルなりカオスなりに突っ込んでいく。
例えば僕という個人がこれまでに歩んできた人生を細かくまとめれば、伝記として一応既知の集積が完成する。
しかし僕はこれからいつまで生きるかわからない。仮に65歳で死ぬとすれば、僕には既知より未知の方が残されていることになる。
思うに、僕は未知の方が超圧倒的に大きいのではないかと感じている。
それこそまさに「∞」だ。そこから整数をいくら引き算しても、「∞」が永遠に広がり続けるだけである。
とても心躍るメタファーだなと、強く思った。
2月3日(土) 神の問いに答える。
神はいるのか、いないのか。著者は神を認めることは知の探求の放棄と言わんばかりに、最初は無神論寄りだったという。
しかし今は、彼なりの定義付けで、「神を信じる」というスタンスらしい。
神は、人間の知らない法則や定理を全て知る存在。未知のことがまだまだ残る手前、神の仕事も多々残っている。
ただし全てを神に委ねて思考停止するのではなく、少しでもその領域に近付けるよう努力すること。
未知のことを既知に変えるためには、神はある意味指針になるのだと、僕はそう捉えている。
2月4日(日) 過ちて・・・・
誤りとはなにか。演繹を間違えたことだろうか。それともスポーツで何かしらの技をし損ねたことだろうか。
誤りとだけ聞くと、その時点で失敗という評価が確定する汚点のようなものに思える。僕もそういう、少し嫌なものという印象はある。
ただ、誤りはその実、ただの行き止まりに等しいような気がしている。つまり方向を変えろというシグナルに過ぎない。
誤りを誤りと認めずに突き進むのは真の愚者という指摘は紀元前にはあったし、理論としても納得できる。
あとはこれを、自分事というバイアスと戦いながら、如何に優しく己に声掛けするかだなと、つくづく思う。
では今週はこの辺で。