精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

『お前、アンチアンチだな』

タイトルの言葉は、いつ読んだか忘れたが、とりあえず2ちゃんねる時代のまとめサイトのどれかで目にしたものである。

 

スレ主は「なんでアンチってあんなに無駄なことをするの?」みたいな疑問を呈するスレッドを立てていた。それに対する秀逸なコメントとされていたのが、題名のヤツだ。


『お前、アンチアンチだな』

 

―この言葉が不思議と、頭に残って消えずにいる。その返しの上手さが印象的だったからだろうか。いや、ちょっと違うような感じがする。

 

どちらかと言えば、アンチに目くじらを立てている時点でお前もやってることはアンチ側だよ、という至極その通りという指摘に、すごく腹落ちしたからではないか。

 

或いは、「じゃあどうすればいい?」という問いに対し、自分が一つの答えを持っていないからではないか。多分両方なんだけど。

 

ということで今日は、別にアンチに絡まれているわけではないけど、アンチっぽい思考や言動をしたくなった際に自制できるようにするためにも、この言葉を紐解いてみる。

 

 

許せない!悪いのはお前だ!

悪いあの人、かわいそうな私 - 読書録


アンチに関する研究は最近割と体系化されてきた印象があるが、まとめようと思えばすごくシンプルにまとまる。

 

アドラー心理学で登場する、「悪いあの人、かわいそうな私」というフレーズがある。端的に言えば、これを根拠に他者へ執拗に絡むのが、アンチだと考えている。

 

人気があり、褒め聳やかされている存在を見て、自分がそうなっていないことに嫉妬を抱き、何かしらの盾を装備したうえで、執拗に絡む。

 

例えば、「お前がやっていることは社会的に見て、道徳的に見てどうなんだ!」という風に。卵の黄身を食わずに捨てるボディビルダーに絡むヤツの論理である。

 

そんなことを言ってしまうと、ニンジンの皮を剥くことも、ジャガイモの皮を剥くことも同じことになってブーメランなのだが、まぁそれはいい。

 

こういう風に、嫉妬が原動力となり、どうにかして自分の方が上だと証明したいとか、相手の欠点を見つけ出して並べたいとか思うことは、実は単発的なら割とある

 

僕より圧倒的にできる存在。僕が強みとする部分に秀でた存在。そう言った人に、一切の嫉妬や敗北感を持たずに接することは、それはそれで難度が高い。

 

自分よりできる人間と並んだとき、反射的に敗北感を抱くクセは、かなり弱まったものの、やはりゼロにはなってこない。僕の器の限界は、今ここにあるのだ。

 

―だが最近は、そういう感情が湧いた際、早めに御せるようにはなった。実体のない嫉妬は論外、少しでも自分の努力に昇華しろと、自問できるようになったのだ。

 

そういう切り分けを始める際に、表題の「アンチアンチだな」という冷静なツッコミは、すごく有益である。なんというか、目が覚める

 

本当にアンチに対して冷ややかな人は、文字通り全く”相手にしない”という表現がしっくりくる。たまに煽って炎上させるのも、狙いがあって、ということがほとんどだ

 

つまり、全く同じ土俵に立っていない。「ぼく、せんせいよりつよい!」と詰め寄る子供に、保育士の先生が取る対応と、驚くほど似ていると思う。

 

相手が誰であれ、嫉妬によって感情的になった瞬間、僕はいわゆるアンチの思考になっている。自分がなりたくないと思っていた側に突っ込んでいる。

 

正義というのはかように厄介なのだ。「お前、アンチアンチだな」という冷静なツッコミを、これからも自分に言えるようにしたいと、改めて思った。

 

ということで少し短いけど、今日はこの辺で。