精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

冷静に考えると、僕は僕が何を普段考えているか、全くわからない。

僕は「エンパス」という、他者の感情に過度な共感を示して疲弊しやすいという、生まれ持っての思考の癖があるらしい。

 

僕が感じる喜怒哀楽の大体は、僕が本心でそう思ったからではなく、他人がその感情を感じているのを受信し、結果僕もそう思っているという話なのだ。

 

これ自体は、もちろんある程度の確証バイアスもあるだろうが、過去を振り返っても強くそう思えてくる。僕は他人から感情を受け取り続けて、ここまで来たのだろう、と。

 

先日は、そんな自分の過共感なりエンパスなりについて、じっくりと学びを掘り下げる記事を書いた。だがその後時間を置くと、ある疑問が自分に、ふと生じた。

 

そしてその疑問は……そこそこに厄介だと、強く思うに至っている。今日はそんなお話だ。

 

 

"僕は"今何を思っているのか?

 

改めて書いておくと、僕は他者の感情に染まりやすい。しかもそれは、ネガティブなものに、より強く、長く、そして自然に反応する。

 

例えば楽しい飲み会の席においても、はしゃいでいる大多数ではなく、つまらなそうな少数にどうにも意識が向きがちだ。

 

そしてその人達の「孤独」や「不満」という感情が伝染し、どこかいたたまれなさを僕は感じやすい。だから結果として、疲れることも多い。

 

一方、楽しい雰囲気に染まり、柄にもなくパリピなムードになっている自分もいる。良くも悪くも僕は染まりやすいことの、端的な例に感じられる。

 

ここでふと思う。これらが受け取った他者の感情であるなら、僕は【本心では】何を感じているのだろう。そしてこの問いに答えるのは、とても難しいと気が付いた。

 

仮に今感じている喜怒哀楽の全てが借り物だとすれば、それをひっぺがすと僕の本心が出てくる、となる。それを心掛けて、自分の心を観察してみることが鍵なのだ。

 

だから静かなときに、自分の本心をふと考えるのだが、そのときの感情はどう解釈しても「無」であり、基本感情のどれにもラベリングができそうにないのだ。

 

他者が居れば、僕はすぐ染まる。ただしそれは他人の感情が投影されたもので、本心ではない。だがそれに隠れて、つまるところの僕の本心がわからない

 

本当の感情を見つめようとしても、一人になる頃にはそれは流れてしまい、検証ができなくなる。僕はあのとき、本当は何を感じ、考えていたのか。

 

「エンパス」が拗れると、いつまで経っても【本心】にたどり着かない。自分自身に対し、疑心暗鬼を生じてしまう。

 

共感とは、他人の感情に理解が及ぶことだ。だが僕の場合は、その感情を推察しているというより、もはや同時に生じているというのが、モデルとして近いのだという。

 

誰かが殴られた場面で、その気持ちを想像して辛くなるという次元ではなく、その気持ちが自分の中に生じて、当事者と同じ水準で辛くなる

 

つまり、それまでの僕の感情を一瞬で上書きし、保存しているも同然だ。それが過ぎてみれば、僕自身が本来秘めていたものが、跡形もなく消え去っている。

 

そんなことの繰り返しなので、僕は僕自身の感情を、実際のところ日頃全く冷静に観察できていないのではないかと、そんな少し怖い仮説に行きついてしまった。

 

ところで、哲学者オルテガの言葉だというものに、こんなのがある。

 

私は、私と私の環境である

じぶんとは、環境も全部ひっくるめて、じぶん。

 

この言葉は、”自分”とは、思考するこの自分だけではなく、周りの環境によって変化する自分全ても含む、集合体のようなものだと捉えよ、というヒントに感じている。

 

一人でいるときの自分も、誰かといるときの自分も、全てが”自分”である。だから、環境と自分の関係性にまで目を向けよう。そんな風に僕は感じていた。

 

しかし今、その逆のことを思っている。僕は、あまりにも環境によって決定されすぎている。僕と僕の環境の集合体が僕だとして、前者の僕に関してヒントがまるで無い

 

環境からの影響を受けていなければ、僕は何を思い、どう行動するのか。そのヒントが何も見つからない。僕の人生は押しなべて、誰かの影響で決まってきたからだ。

 

僕の感情や思考を、僕は上手くキャッチできない。「エンパス」における負の側面が、すごくはっきりと表れている気がしてならない。

 

もちろんこの世はすべてただの因果だと割り切って、自分固有の思考・感情など存在し得ないと決めつけてもいい。しかし、それにしても、僕も僕の腹の内が見えないとは。

 

自分が一番自分のことを分かっているなんてのは、自分のことを分かっていない証拠だと思っていたが、僕はそこからさらに桁外れにわかっていないとみていいだろう。

 

”本来の”自分の欲、思考、感情。他者の感情を受信し、都度上書きされて消えてゆくこれらを、どうすれば敏感にキャッチできるのか。

 

「もっと自分のためのことに時間を使え」と、最近やり込んでいるゲームの主人公はことあるごとに指摘されている。僕はこの言葉を僕に伝えてやらねばならない。

 

だがまずは、手持ちの武器があまりにも少なすぎる。数学の公式のように、心の内を描き出す方法を、たくさん調べてどんどん試していくしかあるまい。

 

本心を突き止めることは、2024年、まず間違いなく大きな目標になりそうである。

 

それでは今日はこの辺で。

 

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