最近、一人になる時間を重視している。僕がHSS型HSPだとしても、超内向型だとしても、提唱者だとしても、どれにしたってそれが要ると書かれているためだ。
日々の暮らしの中で、仕事の中で、如何にして一人になるか。これをきちんと設計しないと、僕のメンタルは猛烈に削れて、摩耗し、いずれ壊れてしまうだろう。
元々その時間は大事にしていたつもりだったが、あくまでもそれは我流で、かつ「こんなもんやろ」という適当さもあった。
その意識が変わったのは、長谷部誠氏が書いた「心を整える」を読んだことがきっかけだ。
まだ読了していないので浅いコメントしかできないが、正直に感じたことは1点。それは、「一人の時間とは、思った以上に独りなんだなぁ」ということだ。
今日はそれを踏まえて記事を書いてみる。
独り=遮断。
【Quiet】でも読んだ話だが、内向型に振り切った人間は、日々のところどころで一人の時間を設けなければ、簡単に消耗してしまう。それは僕も同じだ。
その特性には、10代の頃から薄々気付いてはいた。実際、野外活動や修学旅行を終えると、ただ「楽し疲れた」とは違う猛烈な疲労感を、都度強く感じていたくらいだ。
そのときはそのことを「燃え尽き」と思っていたが、今は単に他者の存在に心が擦り切れかけていたんだなと、どこか優しい目線からそれを受け止めることができている。
とはいえ、一人になることは、思った以上に難しい。例えば駐車場で独り、コーヒーを啜るとか、誰もいない教室でただぼーっとしてみるとか、色々なことを試してきた。
しかしながら、全て同じ「一人の時間」であるはずなのに、全然疲労が抜けなかったり、逆にとてもリフレッシュできたりと、そのそれぞれですごくブレがあったのだ。
なぜこうも、その効能が安定しないのか。色々考えたが、疲れが取れなかったときは恐らく、実は一人になれていなかったことが原因だろうと納得している。
例えば僕の仕事場は、駐車場が通りに面しており、人の往来は結構ある。だから話し声は聞こえるし、雑踏の音も絶え間なく聞こえてくる。
僕はその辺りも敏感なのか、ただの雑音ではなく、そのセリフ一つ一つが情報を伴った言葉として、頭にずっと叩き込まれてくるのだ。
結果として脳は、その”言葉”に込められた意図を勝手に推察し、慮り、僕の心のリソースを勝手に消費していく。さながらコンピュータウィルスのような恐ろしさだ。
一方、きちんと寛げたと思うときは、偶然だと思うが他者の影をうまく排除し、環境の音以外が聞こえてこないような空気が、きちんとできていたように思える。
これを考えると、一人の時間という定義も生ぬるいといえる。一人の”時空間”をどうクリエイトするかという問いにして、やっと正しいのではないか?
繰り返しになるが、一人の時間を大切にすることは、内向的で心を消耗しやすい人にとって特に重要である。これは全く、甘えでもなんでもない。
僕らはむしろ、日頃から全力で脳を酷使している。体力が人より無いのではなく、常時ハイパフォーマンス設定のPCを起動しているようなものなのだ。
適切に休みを挟むことをきちんと集中力が回復させれば、つまりハイパフォーマンスを維持できる可能性があるということだ。
内向的な人が猛烈な成果を生むためには、これがある種の【型】である。最初から、マラソン型のスケジューリングは諦めた方がベターなのである。
だから僕は今、仕事場にあるデッドスペースをコツコツと片付けている。今はゴミの一時的な置き場になっちゃっているのだが、そこを僕の一人の空間にするのだ。
疲れたときは、そこに隠れて一服する。誰にも理解されない奇癖と思われるだろうが、知ったこっちゃない。僕は僕の世界に隠れなければ、すぐに死んでしまうのだ。
ということで今日はこの辺で。