精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【英文読書ルーティン日記132】"Quiet"読書感想ブログⅦ ~内向的に芸術とスポーツに向き合う~

ふと思うのだが、外向性を持って生まれた人たちは、「俺たちは勝ち組だ!」とわかり易く確信しているものなのだろうか。

 

僕らに見せる顔が外向的なだけで、その内面には葛藤を抱いているものなのかもしれない。そしてその葛藤が見えたとき、僕はその人と友達になれると、ちょっと思う。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

暗いだけのヤツはめんどくさい。明るいだけのヤツもめんどくさい。それに、曝け出せないコミュニティは息苦しい。読んでいく内に、個性の捉え方が揺れ始めた。

 

いい意味で先入観や価値観が壊れる感覚。英語で書かれているのに、メッセージの一つ一つがすごく身に染みて、腑に落ちていく。

 

今週はどんなそれに出会えるか。以下本題である。

 

 

6月19日(月) クリエイティブに救いあり。

 

ストレス解消の術としても有名なクリエイティビティだが、そこに救いというか、答えというか、自己表現の正解を見出す内向的な人は極めて多い。(僕もそうだし)

 

このブログも、飽きもせず、ルーティンとして、気付けば3年以上毎日書いている。書くのを止めたら、自分がどうなるか、ぶっちゃけ想像するだけで慄然とする。

 

もちろん、文字を書くのが合わない人もいる。そういう人は、絵を描いたらいいし、作曲したらいいし、踊ったらいいし、他の何かに仮託したって良い。

 

思うに、クリエイティブな何かというのは、自分を表現するための型でありツールなのだと、最近は感じている。

 

ある人にとっては、それは料理かもしれない。工作かもしれない。建築かもしれない。絵画かもしれない。小説かもしれない。

 

それを見つけて発信すること。実は内向的な人こそ、己の胸の内を何かに託し、同志に向けた共有が必要と考えていいのかもしれない。

 

6月20日(火) 「世界と繋がる唯一の方法なんだ」

 

内向的であることを自覚している人は大抵、何かしらの芸術にのめり込む。経験則としても、そう思う。しかし、なぜだろうと言われたら、首をかしげる

 

クリエイティビティを言語化しようとすること自体、そもそもある意味愚かなのかもしれないが、それについて大きなヒントとなるセリフを今日は見つけた。

 

それは、芸術とは「世界と繋がる唯一の方法である」というものだ。胸に秘めた思いがありながら、それを人に伝えられない。発散したいあれこれがマグマのように溜まる。

 

芸術という型に入れることで、誰とも分かち合えない脳内の世界を、その人だけの宇宙を、周りと共有することができる。それがある意味救いなのだとしたら?

 

根源的な欲求として、人は誰かにわかってもらいたいという性があるのだろう。それはお腹が空いたらご飯を食べるのと同じくらい、本能的なことだと感じている。

 

また一つ、芸術の面白さに気付けた気がする。この人は何を伝えたいのか、何で悩んでいるのか、そういう問いをもって、色んな作品を味わいたいと思う。

 

6月21日(水) 己と向き合う時間が必須の理由

 

一人きりで練習しても、技能の熟達には限界があるが、一人きりで打ち込む時間がないと、どんな才能も中途半端なところで止まる。今回はそんな話だった。

 

自分との対話と言えばかっこいいが、例えばあるスター的バスケ選手は、日に1000本のシュートを独りで打つことをノルマにしていたそうだ。

 

才能の開花と成長には、独りで自分自身、課題、動き、そういったものにしっかりと向き合う時間が大切なのは、経験則としても何となく理解できる。

 

型とされる動作や作戦は、万人に向けたスタンダードだ。それを、自分にドンピシャで合うようカスタマイズしていく際には、沈思黙考の段階が要るのではないか。

 

腕の振り、足の上げ下ろし、体勢、柔軟性。そういった、普段は無意識下に置いている動作を意識的に観察するには、人の声や視線はただの邪魔になる。

 

なんと励みになる考え方だろうか。これからも安心して、沈思黙考ができそうである。

 

6月22日(木) 好きなことは切符のようなもの

 

「社会」という言葉は、意外と掴みどころがない。辞書で引いてみても、「でしょうな」という以上の感想を抱かない定義が載っているだけだ。

 

  1.  人間の共同生活の総称。また、広く、人間の集団としての営みや組織的な営みをいう。「―に奉仕する」「―参加」「―生活」「国際―」「縦―」

  1.  人々が生活している、現実の世の中。世間。「―に重きをなす」「―に適応する」「―に出る」

  1.  ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。また、仲間意識をもって、みずからを他と区別する人々の集まり。「学者の―」「海外の日本人―」「上流―」

  1.  共同で生活する同種動物の集まりを1になぞらえていう語。「ライオンの―」

  1.  「社会科」の略。

 

しかしながら、単なる「集団」や「群れ」と表現するより、「共通項を持った仲間たち」という意味合いを、そこから感じられる

 

グローバル化によって、より同類を探しやすくなった今、社会はむしろ細分化され、あちこちにコミュニティがあるのが現代だ。

 

では、それぞれのコミュニティに参加するには、何をすればいいのか。おそらくそれは、好きなものは好きだと、これができると、表明することではないか。

 

それを切符にして、自分にとって居心地がいいグループへ参加する。内向的でなくても過ごしやすい環境を得る、一つの建設的な方法と言える。

 

音楽でもスポーツでも何でも、好きなことを発信するのは悪いことじゃない。もっとガツガツ、反社会的じゃない限り、やっちゃっていいんだよ、である。

 

6月23日(金) まずは打ち込んでみる。

 

芸術の一切に興味がない人を、僕はあまり知らない。絵や文字、音楽や詩。どれかに関心を持つのが大半ではないかと思わされる。

 

しかし正直、それは別になんだっていい。好きという予感がするなら、実際に手を出して確認することが大事だと、強く思う。

 

絵が好きかもしれないなら描いてみたらいい。そしてそれは、別に共有しなくてもいい。でもいずれ、それを通じて、社会と繋がるのを模索してほしい、と。

 

どんな出会いも、やってみないことには手触り感をもって本当にそうかはわからない。飽きて上等。軽い気持ちでやるのがイイよと説かれており、僕もそれに同意する。

 

6月24日(土) 自己対話で辿り着く深み。

 

アスリートには、内向的な性格、外向的な性格、どちらの方が向いているのだろうか。個人競技なら前者、団体なら後者という感じがするが、さて如何に。

 

実際のところ、やはりそう単純に括れる話では無いようだ。例えば内向的であれば、自己対話という形で、誰も辿りつけない深さに届くことがあるためだ。

 

プロの動きは基本に忠実だという。だからといって、プロの動きをすぐ真似することはできない。この一見矛盾することは、なぜ起きるのだろうか。

 

それは、観察と自己対話を夥しい数繰り返した結果辿り着いたか否か、であろう。膨大で立方的な努力があるかないか、だ。

 

ジャブ一つとっても、素振り一つとっても、腕の伸ばし方、体幹の意識など、何度も何度も仮説検証を繰り返してやっと、基本動作に熟達できるということか。

 

基本は何度も繰り返せと言われるが、それを意識下において繰り返せる人こそが精髄に至るのかと、改めて納得させられた。

 

6月25日(日) 夢中の意味。

 

夢中と言うと、激しいエネルギーを一点に投下し、周りにも強い影響を与えまくる様を僕は想像していた。しかし、本書を読むうちに、考えが変わった

 

夢中も没頭も、極めて主観的で、いわば【閉じた】時間である。徹底して対象か己自身とのフィードバックにだけ意識が完全に向いた状態だ、と。

 

外から見たら、エネルギッシュというより、とても静かな時間や様子に見えるだろう。夢中とは、それくらい穏やかな時間なのだ。

 

夢中や没頭に必要なのは、強い熱意・興味・好意もそうだろうけど、仮説・問い・観察のサイクルを超高速で回すのもそうだというのは、とても救いになる。

 

今度、生徒に教えてあげることにしよう。

 

―ということで今日はこの辺で。

 

 

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