精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕の老害化はもう始まっている。

今日は、かなり強めの自戒っぽい内容の記事を書いてみる。

 

響きの良い言葉ではないのだが、老害という言葉が存在する。個人的に「ただ年を食っただけの人だなぁ」と思う人を見るにつけ、そうはなりたくないと思ってきた。



 

では実際、その「老害」と呼ばれる状態はいつから始まるのか。つぶさに自己内省を繰り返さないと、知らぬうちに僕もそうなるのではないか。

 

僕自身、特に30代に入ってから、強くそう思うようになってきている。あまり大学生と積極的に関わりたいという意欲を失くしつつあるのも、それが理由の一つである。

 

例えば、僕が20歳の時、場の主導権を握りたがる30台の人に対して、ちょっとネガティブな感情を持ったりすることはままあった。

 

「【老害】というのは、自分が所属しているコミュニティの平均年齢をプラス10ぐらい外れたところから始まるのかな?」と、そのときは仮説立てていた。

 

―しかしそのうえで、最近急に、「もしかして、俺は俺が「老害」と定義していた人たちの言動に近づいてきているのではないか?」と思ってしまう場面があった。

 

今日は急ぎそれを客観的に分析して、自分の言動を見つめ直したいという記事である。

 

 

”おじさん(笑)”

 

その気づきというのが、自分でもちょっと意外なのだが、生徒への自分語りが気持ちいいと思ってしまったことである。

 

仕事柄、説明こそが売り物なのだが、その説明とは必要最低限であればあるほど実は良い、というのが講師の共通認識として存在する。

 

いかに短いフレーズやステップでその生徒の腑に落とすか。それこそがこちらの腕の見せ所であって、自分が喋りたい、知識をひけらかしたいという想いは論外なのだ。

 

それらをモチベーションにして指導に当たる人は、何歳だろうが講師として「老害」だ。僕は自分にも幾度となく矛先を向けながら、そう考えている。

 

乱暴に言えば、自分のことを生徒に喋って持ち上げてもらうのが好きなら、キャバクラに行って金を"払って"やっておけと考えている。

 

それくらい厳しく構えていたつもりだったのだが、ふと気づいた。もしかして自分も、ただ自分語りが気持ちいいから喋っているときがあるのではないか、と。

 

本当のところは推察するしかないのだが、最近僕が喋ってる際に、生徒が「飽き」のリアクションを浮かべているように感じた。

 

これはつまり、自分が必要以上に喋りすぎなのではないかと思うと、かなり怖くなった。僕が忌避していた側に、知らない間に変貌している可能性があるとは。

 

さながら、相手が自分の話に興味があるかどうかを無視して、ひたすら自分が得意とするジャンルの話をマシンガンの如く入れるようなものだ。これはモテない。

 

僕の説明や喋りはあくまで売り物であって、ヨイショしてもらうためのモノではない。そのことを改めて意識し直そうと、かなり反省している。

 

―では、どうするか。もちろん生徒と打ち解けるためにも会話は必要なので、黙して語らずというキャラでいくわけにはいかない。問題はその比率なのだ。

 

からしばらく意識的に、授業内における会話の8割を生徒に渡すように、僕はやんわりとバラエティの司会みたいな回し方を心掛ける所存だ。それが、今の僕に足りない。

 

スキルとして結局中途半端な研究と練習で止まっている「聞き上手」というのを、ひりつくような必要性を伴って学ぶ好機だと考えて、前向きになろうと思う。

 

「仕事の辞め方」にも書かれていたが、人は「40代からソフト老害と化すらしい。人から持ち上げてもらうことは気分が良い。だから気付かないまま、その沼に嵌る。

 

気付けば悦に入って過去の武勇伝ばかり語り、若手のアイデアを軽んじるようになってしまう。そうなった後の末路は悲惨だ。肩書を失くせば、一撃で僕は孤独になる。

 

僕の働く職場の平均年齢は、大学生講師だらけという環境もあって、かなり低い。僕と同じ干支の先生もちょこちょこいる。その方々から見れば、僕も立派なオヤジだ。

 

それに抗って無理に若作りをするのではなく、その年相応の立ち位置から、老害とみなされない関わり方を探っていく。人生は何時の段階も勉強なのだと実感する。

 

では今日はこの辺で。

 

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