精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

自分を追い詰めるのは、いつだって”自分”。

仕事中、時折自分が追い詰められている感覚に襲われることがある。正直、今現在もその状態にある。やってもやっても仕事が終わらない気がして、精神が壊れそうだ。

 

「仕事に追われる」「しがみつく」といった風に表現の仕方は様々であるが、僕自身は「追い詰められる」というくらいの悲愴感が一番しっくりくる。

 

このモードに囚われ続けると、本当に厄介だ。あらゆる出来事は神から自分への理不尽に思えるし、あらゆる他者の言動が、どこか自分に対する敵意を帯び始める。

 

自分から崖の先端に歩みを進めるというより、あらゆるものから弾かれ続けて、絶壁の淵に追いやられるという感じだろうか。僕のイメージモデルはそんな具合である。

 

冷静に考えれば、この追い詰められている感覚は単に、自分の中で【自己否定バイアス】が強く働いている状態に過ぎない。

 

社会的にせよ自意識にせよ、ある意味青天井な理想像がどこかにあって、それに足りない現在軸の自分の全てを、自分で徹底的に否定するような感覚。

 

ゲームのキャラクターみたいに完成した自分でないことを、四六時中呪い続けるようなものだ。あまりにも偏屈で不健康だが、そのモードのときにはそうだと気付けない。

 

だが、このモードに過去何度も突っ込んだことから、いい加減これに対する受け身のようなものはわかってきている。結局、自分を追い詰めるのはいつだって自分なのだ

 

今日はそんな話を書いてみる。

 

 

まずは、目を覚ませ!

 

この追い詰めれた状態では、まず何より、自分がそうなのだと気づくことが重要となる。しかし、「気付くぞ!」と意識しても、それはまず不可能だ。

 

例えば、地球は今こうしている間も猛烈な速度で自転をしている。しかしその上で暮らす僕らは、そのことを意識することは無いし、しようとしても極めて難しい。

 

しかし、フーコーの振り子という装置の原理を知り、それを観察することで、僕らは自転を自覚することが初めて可能となる

wondephysics.web.fc2.com

 

では、この「追い詰められているモード」における、フーコーの振り子はなんなのか。僕が思うに、他者の言葉や観点がその役割を果たすと感じている。

 

僕はよく本を読むが、時々「はっ!」という感覚を持つときがある。それは大抵、自分の悩みにおける、別の観点を知った際に起こる。

 

「なるほど、そういう考え方もあるな」という風に。そして一度でも気付いてしまえば、心は驚くほど落ち着き、目の前に見える問題もすごくクリアになる

 

オススメなのは、自分の抱える問題を一言で表現し、それに関連する名言を読んでみることだ。例えば「人間関係 名言」という風に。

 

追い詰められた状態から抜け出すためには、一度に全てを解決しようとするのではなく、段階を踏んでいくことが大事だ。言葉はやはり、その一助となるとみていい。

 

暴走する主観をどう解除するか?

 

その上で、暴走しがちな主観をどう制御するか。ここは永遠の課題と呼ぶべきテーマなのだが、今試していることが一つある。

 

それは、一人二役だ。まずは主観のままに頭の中にあるやるべきことを書き出して可視化し、その後でそれを、「他人の予定表を見ている」設定で見つめ直すのだ。

 

あくまでも僕が僕に語り掛けているだけなのだが、「この項目はこの時間にした方がいいのでは?」「このタスクは〇〇くんに頼めるよね」とツッコミを入れていく

 

元々、感情と理性は脳の異なる部分が司ると言われる。言うなれば皆が誰しも二重人格ということなのだが、日頃意識しなければ片方の観点だけに寄ってしまうのも納得だ。

 

僕らは他人に対してであれば、どこまでも割り引いてアドバイスができる。親身になって寄り添う方が困難なほどだ。しかし自分に対しては、大抵その逆が行われる。

toyokeizai.net

 

自分を追い詰めるのはいつだって自分だが、逆に自分という特性を乗りこなして誰よりも活用できるのもまた自分なのだ。

 

感情的な自分は理性的な自分がよくわかってるし、理性的な自分は感情的な自分があってこそ輝く。そのやり取りを心掛けることが大事なかなと、そんな風に思う。

 

では今日はこの辺で。

 

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