精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【英文読書ルーティン日記166】"PSYCHO LOGICAL"読書感想ブログⅡ ~精神の異常正常は誰が決めた?~

メンタルの動きは、一切が他人に見えない。表情や声色に反映されるのはその一部であり、だからこそ誤解や齟齬を引き起こす。

 

誰も自分のことを分かってくれないのではないか。それでも己の中には何か得体のしれない感情が沸々としていて、それを中世の人は絵画に託したと勝手に考えている。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

時が流れ、感情を含むメンタルを可視化しよう、論理的に解き明かそうという機運が高まった。だがそれもまだ途上だ。筆者がこの本を書くきっかけはそこにあるという。

 

現時点では、普遍的なメンタル解析の公式は存在しない。各々が多くの人の思索をヒントに、自分なりの観察を深めて、手探りしていくしかないのだ。

 

この本もまた、僕が僕の内省を深めるためのきっかけになってくれることを願う。ということで今週もまた、読んでいくこととしよう。

 

 

2月19日(月) 同じ健康のはずなのに別物扱いされるということ。

 

メンタルもフィジカルも、その診断や治療においては多くのことをシェアしている。筆者はそう指摘する。

 

言われてみれば、人体の観察、症状の言語化など、同じ点はいくつも見受けられる

 

とはいえ心に関しては文字通り千差万別で、その人のいう「不安」が、その他大勢の抱える「不安」とは同じでない可能性がとても高い。

 

外部から診断を貰うのではなく、徹底して自分と向き合うことで心に巣食うデーモンを突き止めること。

 

メンタルヘルスがどこか同意を得づらいのは、この辺りの特性にあるのかもしれない。

 

2月20日(火) カエルは犬である。

 

犬とカエルは違う生き物だ。だが目の数、足の数、陸生であることは同じだ。ゆえにカエルは幾ばくか、犬なのだ。

 

……フィジカルの話を丸ごとメンタルヘルスに転じるのは、これくらい荒唐無稽な話なのだという。カエルを犬として扱えば、その内死ぬことは請け合いだ。

 

その一例は、不調時の過ごし方にも現れる。怪我などで身体が壊れているときは、とにもかくにも安静第一だ。

 

しかし心が不調のときは、引きこもることが更に思考を拗らせることにもなり得る。定期的に散歩することがメンタルの改善に繋がるように。

 

類似点を認めながら、差異も無視せず、向き合う。すごく頭を使う話だが、それができないと未来はおぼつかなさすぎるとも思わされる。

 

2月21日(水) 「鬱は甘え」

 

骨が折れた人がいたら、大抵の人は心配し、労い、休みをくれる。

 

ただし心が折れた人には、大抵の人は舌打ちし、休みではなく無責任な励ましか叱咤をくれる。

 

その人が抱えている苦しみを可視化できるかどうか、共有体験があるかどうかで、ここまで差があるのかと驚くが、これが現実だ。

 

怪我をすれば痛い。だから、他人の傷を見れば、思わず顔をしかめてしまう。だが心の傷は見えない。ゆえに過小評価する。

 

「そんなんだれだっておなじだよ」と。ただし、それは表面上の話だ。

 

同じ切り傷の痕でも、例えば不注意で切ったものか、親しい友人から喧嘩の中で切りつけられたかで、意味合いはまるで異なる。

 

どんなストーリーがその痛みに隠れているか。深淵を覗く気分だが、なるだけそこを意識できる自分でありたいと思う。

 

2月22日(木) 無敵の人になる前に。

ja.wikipedia.org

 

メンタルの不調に悩んでいるときの日記は、人によっては顔をしかめるものだが、僕はそこに既視感を覚える。

 

「自分が常に自分を非難し、周りの人の支援が全て敵意に思える」というのは、僕も経験値として持っているためだ。

 

酷な話だが、そうやって外界からの(想像上の)攻撃に苦しむ人に必要なものこそ、外界からの支援だ。とはいえ、自ら手を振り払う人へ、どう支援をすればいいのか。

 

だからといってその人を村八分にすると、それはそれでリスクが大きい。本当に全てを切り離して閉じ籠ってきた人は、突然「世の中全てへの」復讐を果たすべく爆発する。

 

陰惨で残虐な事件の背景には大抵、こういう孤独が隠れているのは、他人事ではないように思えてくる。

 

2月23日(金) 目に見えないけど、存在するもの。

 

褒め言葉ではないが、特徴的なファッションや思想を持つ女性を「地雷」と評することがある。

 

しかしそんな女性も、例えば超地味な格好をさせておけば、一見してそれを見抜くことは難しくなるだろう

 

メンタルの不調を外から判断することの困難さは、これと似ている。そもそもあまり目に見える形にならないし、隠そうと思えば隠せるからだ。

 

ときには本人さえ、自分が不調であることに無自覚だ。患部が腫れ上がり痛みが生じるのとは訳が違うという話。

 

その尺度足り得る指標には、何があるのか。それについてはまだまだ研究の途上であり、さらなる洗練が待たれるとのことだった。

 

2月24日(土) かしこい奴らが作ったテストの罠。

 

IQという概念ができた当時、そのテストはとてもお粗末で、偏見にまみれたモノだったという。

 

例えば電球やテニスコートという語句を答えさせる問題があったらしいが、それは富裕層しか見知りできないあれこれだ。

 

単に知らないことは、知恵となんの関係もない。例えば僕は釣りの用語を一部の東大生より知ってるだろうが、学力は比べるまでもなく僕の方が低い。

 

感情や思考は見えず、偏見によって簡単にねじ曲げられる。だからこそその取り扱いには注意が要る。

 

しかしそれをどうやればいいかは、また別の難題に他ならないのだが。

 

2月25日(日) 多数派の暴力。

 

メンタルの不調(病変)なのか、それともただの個性なのか。その定義は極めて曖昧で、時代とともに移ろいゆくものだ。

 

ほんの数十年前まで、同性愛(特に男と男)は精神的な異常と見なされてきた。つまりゲイは病気なのだ、と。

 

その理由は、本来性向や性的興奮は繁殖のためのものであり、それを目的に合わない同性に抱くのは不自然だから、という理屈だ。

 

ただし今や繁殖以外を目的とした性行はビジネスにもなっているし、実は同性愛はキリン等でも見られる現象だという。

 

社会的規範からズレたら即異端扱いなど、暴論もいいとこだ。デリケートなテーマだと、つくづく思わされる。

 

では今週はこの辺で。

 

 

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