精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【英文読書ルーティン日記167】"PSYCHO LOGICAL"読書感想ブログⅢ ~心理か薬か~

有名な性格診断をやってみた。僕はどうやら提唱者というカテゴリに属す者であり、これは全人口の1%程度の比率だそうだ。

 

その特徴の解説に、すごく同意するものがあった。「自分は何かが人と違っている」「そしてそれを分かってもらえないと思っている」という部分があるというものだ。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

これは何も厨二な意味ではない。どちらかと言えばネガティブな解釈を僕はしており、何をしてもどこか違うという感覚を持ち続けてしまう、という話だ。

 

しかしそれもまた独り善がりなのではないかと、この本を読み始めて思い直している。誰しも人と違うと思っているのであれば、それは皆同じということなのではないか。

 

僕らは誰とも分かり合えない、自分を理解してもらえないという悩みを共有するという意味で、実は繋がっているのではないか。そう思えてくる。

 

佐渡島庸平氏が10代の頃に感じていた「閉じ込められている」という思いに近いところに、30代にして気付けたのかもしれない。であれば今後僕は、何を考え始めるのか。

 

それも踏まえながら、更に読んでいこうと思う。

 

 

2月26日(月) 「らしさ」の害悪。



 

先進国では若年男性の自殺率が高いのだという。その原因として指摘されていることは、納得と同時にとても根深い。

 

最近でこそ使用が避けられる言葉になってきているが、ある意味「男らしさの呪縛」に近いことが、そこで起きている

 

男らしいとは、不言実行、黙して語らず、弱音を吐かず、そんなところだろうか。感情の吐露などもってのほか、なのだ。

 

結果、誰にも理解されないことへの孤独感は高まり、それが閾値を超えれば、越えてはいけない一線を跨がせる力となる。

 

精神的な病気を生むのは、規範や文化にも一因がある。とても深い洞察だと思わされた。

 

2月27日(火) 文化の被害者。

 

男らしくあれ。この言葉は、実は昔からそんな好きではない。自分がいわゆる男らしい男の素質がないから、というのがひとつ。

 

もうひとつは、男らしさが持て囃されるのは虚構の世界だけだからだ。そして大抵、男らしさ全降りのキャラが主人公でいられたのは、良くて昭和までではないか。

 

一見武骨に見えるのに、弱さや稚気を内包している。ときには感情を露にする。そういうアクセントがあって始めて、魅力という味わいになる。

 

男らしさばかり追い求める人も、それを押し付ける人も、つまり頭が固すぎるだけなのだろうと思っているので、現実世界において僕は、意図的に今は距離を置いている。

 

2月28日(水) 専門という視野狭窄



 

心理学を本当の意味で修めるためには、いわゆるフィジカルの好不調が精神に与える影響も学ぶべきだとされる。

 

ある反応には、必ず裏に、それを引き起こす原因がある。汗をかくということは、気温が高いせいだ、という風に。

 

そしてそれらは、精神と肉体という区分けさえ飛び越えて、相互に影響を及ぼし合う

 

末期癌を診断されてうつ病になる。極度の緊張のせいで、普段より筋肉の動きが悪くなる。どちらもあるあるの話だ。

 

原因がわからないときは、それぞれの分野に囚われて、視野狭窄に陥っている可能性も高いとされる。広く浅い知識は、専門的な分野でも大切なのだとわかる話だと感じた。

 

2月29日(木) 発達障害は”増えた”のか?

 

DISORDERか、ただの感情の発露か。この境目はよく変化する。

 

昔、僕はヒスを起こす子と言われていた。気に入らないことがあると感情が爆発するためだ。今なら発達障害と言われるだろうな。

 

メンタルや情緒に何かしらのバグがあると診断されたとき、気にすべきことがある。それは、誰がそう決めたか、だ。

 

多くの場合は偶然が重なった結果の共同幻想に過ぎず、特に深い理由付けがなされていないものだ。ゲイは病気というように。

 

もう数年も経てば、また新たなDISORDERが誕生するだろう。それには過敏にならず、「うん知ってた」という程度に捉えたいなと、今から考えている。

 

3月1日(金) 医者だから、わからない説。

 

例えばその人は、単に杞憂なのか、極度の疲労なのか、統合失調症の始まりなのか、はたまたうつ病なのか。

 

症状だけで診断をするのは、極めて難しい。僕は以前、医師の診断はすごく曖昧だなと感じていたが、今は納得している。

 

そもそも一つに決定してしまうことは、治療においてはとても危うい。よほどのことがない限り、普遍的に効くものを処方した方がマシだ。

 

関節炎か、筋断裂か、はたまた骨肉腫か。決め打ちせずに、例えば徹底的に検査するなど、できることを尽くされる方がありがたい。

 

断言には魅力と力がある。だからこそ容易にそうはできないなと、改めて思わされた。

 

3月2日(土) 医者だから、わからない説。

 

心理的な病を突き止めるために使われる手法は、アキネイターの問答に似ている。

 

「仕事に行きたくないと毎朝思いますか?」「消えてなくなりたいと思いますか?」などなどの問いを繰り返し、たどり着く。

 

うつ病適応障害?それとも?必然的に、診断はどこか広範で、かつ曖昧な印象を受ける。やはり仕方ないんだろうな、とは思う。

 

僕も自分の思考の癖が知りたくてたくさん調べてきたが、その度に違う言葉で自分を定義され、なにか違和感を覚えたものだ。

 

だがそれこそが特徴なのだと捉え、深く疑わないことにしようと決めた。

 

3月3日(日) 折衷は地味だが役に立つ。

 

薬で治すか、思考を正すか。そしてこれら二つのアイデアは、対立軸にあるのか、協力関係になるのか。

 

筆者によれば、それは場合によりけりらしい。例えばうつ病においては、まず回復と静養がメインとなり、そのためによく投薬も行われる。

 

十分な回復が行われていない人の思考を正そうとしても、それは容易に自己否定へ着地する。

 

相反するアイデアというより、当人の深刻度に応じて使い分けるのが正しい在り方なのだろう。

 

基本的に正解とはいつも、ダイナミクスとは正反対のところにあるんだなと学べる、ひとつの好例だと感じた。

 

では今週はこの辺で。

 

 

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