「お前の気持ちはわかるよ」という言葉が、歳を重ねるほどに嫌いになってきている。なんて適当な相槌だろうと思うからだ。
だから僕も人に言わない。そして言われることも求めない。心の底からそう思ったとしても、僕が心に浮かべているものと寸分違わず一致することなどあり得るだろうか。
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ただし、出来事への共感は話が別だ。例えば僕は母音が伸びる喋り方をする子は大体アホだと思っているのだが、それを「わかる」と言われると、ちょっと嬉しい。
だがそこから転じて、「お前の思考回路全てがわかる」と言われると、一気に萎える。この自分勝手さに辟易もするが、本心なので致し方ない。
相互理解とは、どこまで共感し、どこから踏み込まないかのバランスの上に成り立つ話なのだと考えている。この本を読んでいると、そんなことを強く感じる。
そんなメンタルの話、今回も深めてまいりましょう。
- 3月4日(月) アラクノフォビア。
- 3月6日(水) メンタルヘルスは気合じゃない。
- 3月6日(水) 不安を病気と呼ぶ病気。
- 3月7日(木) 想像力とメンタルヘルス。
- 3月8日(金) 見えないものを想像する。
- 3月9日(土) 未知とどう戦うか。
- 3月10日(日) 正解があると思わないのが正解。
3月4日(月) アラクノフォビア。
蜘蛛恐怖症には長い病名が実はある(アラクノフォビア)。この際、蜘蛛は悪と定義するのは、あまりにも酷い。
多くの場合はただそこにいるだけであり、危害は何も加えてこないはずだ。アシダカグモをたまに見かける度、マジで何もしてこないので、段々慣れてきている。
恐怖感を抱いた際は、なにをハックすれば良いのか。それは認知だ。蜘蛛に対する恐れを自覚したら、その認知のバグを少しずつ正していく。
これこそ認知行動療法の基本だといえる。そして30歳になった頃から僕が意識的に取り組んでいることでもある。
例えば、未知のことを好奇心で感受する人もいれば、不安で感受する人もいる。好ましいのは前者だろう。あるいは、不安でなくなれば、それでいい。
どうすればその思考にたどり着けるのか?橋が崩れた状態で対岸に渡りたいときのイメージが、これと似ているのだという。
泳ぐ?再建する?ジップラインを張る?船を出す?こんな風に矢継ぎ早に問いを出せれば、悩みという言葉の意味さえ更新されそうだ。
悩むのではなく案を出す。これを今後も意識することにしよう。
3月6日(水) メンタルヘルスは気合じゃない。
メンタルヘルスの専門医や専門家と言われると、鼻白む人がいる。これはどんなタイプのそれらに当たってきたかが、その辺を分けると感じる。
カウンセリングの基本は傾聴だ。だが傾聴はときとして、「ただ悩みや感情を言わすだけじゃねえか」という不満に繋がる。
患者は得てして、即効性があり、手触り感もある治療を求めるものだ。例えば投薬治療がわかりやすいだろう。
しかし、投薬をせずに認知の歪みを正せば治るというなら、そちらの方に越したことはない。だがそれは、患者の想いに反している。
僕も含め、世の中の人はラクで速い道を進もうとする。だがそれは、劇薬ということだ。寿命を削るレベルのリスクを伴うかもしれない。
鷹揚さはその人を救う。そういっても過言ではないように思えてきた。
3月6日(水) 不安を病気と呼ぶ病気。
不安を抱くこと自体は、自然なのか病気なのか。ハッキリ言うが、自然な反応だ。抱かない方が生存自体に向いていない。
リスクに対し強制的に目線を向けるために、不安という感情は存在しているとされる。
あるいは、自分が無意識下で忘れている何かを思い出させるためのフックの役割も果たしていると思う。
どの本にも書いてあるが、あらゆる感情には必ず、本能に残ってきた理由がある。全てを悪いことと括らず、フラットにそれと向き合える自分でありたいと強く思う。
3月7日(木) 想像力とメンタルヘルス。
メンタルの不調は「甘え」とよく言われるし、気合い一発で治るとも言われる。僕は本当にそれでなんとかなる人が、すごく羨ましい。
ただしあまりリスペクトはしない。人間関係を構築・観察するにおいて、この上なく雑な考え方だからだ。
できる人は、できない人の胸の内を想像することが困難だとされる。このことは僕もそうだと強く思う。
僕は時折、わざと自分が不得意とすることに取り組んでいる。一例としては、数学の問題とか。
そうすることで、自分の鼻を自分で折るようなことを強く意識している。そうしなければ、僕もまたそっち側になるからだ。
それはさすがに、ごめんこうむりたいのである。
3月8日(金) 見えないものを想像する。
どうでもいいが、僕は、腰痛持ちだ。中学2年のときのケガがきっかけなので、以来18年くらいのお付き合いとなる。
その間ずっと痛いわけではなく、痛む時期があればなんもない時期がある、というのを繰り返し続けてここまで来た感じだ。
そして今はまた、痛みの出る周期に入っている。病院にかかろうかとも思いながら、気乗りはしない。
なぜかというと、腰痛は結果だからだ。そして原因の心当たりは、それこそ無数にあるためだ。何をすればいいか、皆目見当もつきやしない。
姿勢が悪いこと?上体と下半身の筋肉量のズレ?一部の筋肉の出力不足?それとも柔軟性の欠如?
その全てを試しながら、難度も観察と分析を重ねなければ、腰痛の改善には向かわない。その大変さがわかるからこそ、億劫なのだ。
メンタルヘルスもそれと同じだ。結果としての症状は同じでも、その原因が個人個人でまるで異なる。だから難儀なのだ。
好奇心が強い人でないと、持病は克服できないんだなと、そんなことを改めて感じるエピソードだと思った。
3月9日(土) 未知とどう戦うか。
前に読んでいた洋書でも投げ掛けられた問いだが、未知の集合と既知の集合では、どちらの方が大きいのだろうか。
これ自体はもはや哲学のようにしか思わないのだが、少なくとも「どちらも大きい」とは考えて良さそうだ。
メンタルヘルスも同様だ。まだまだ解らないことは多いし、それはどこまでも個人的なものでもある。
しかしそれらを考える際に、ヒントが皆無なわけではない。先人の思考や研究など、足場になりえるものもまた多い。
巨人の肩に乗るではないが、心を観察する際も、用いれる道具はそこそこに多いのである。
3月10日(日) 正解があると思わないのが正解。
長らく僕も陥っていた罠だが、いわゆる治療や鍛練は個人差が大きく、万人にハマるものが自分にそうとは言い切れないのが特徴だといえる。
特に必ず正解と採点者が用意されている学校の問題とは異なり、解くのも正誤を判断するのも自分である。そして正解は、探していくしかない。作ると呼んでもいい。
例えば、腸内環境改善のためには、フラクトオリゴ糖というのを飲むと良いとされる。だが僕は体質的に、それを摂取するとお腹を必ず壊す。
つまり僕にとって、腸を良くするためにそれを摂ることは、不正解に等しいのだ。世間がどう言おうとも、だ。
この辺りをよく押さえておかないと、メンタルヘルスも割とすぐ、おかしな方へと転じていく。唯一無二の正解は存在しない。世の中そんなに、シンプルではないのだ。
では今週はこの辺で。