精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【注目集めるの大好き】「しんのすけ」みたいな子の心理と接し方を調べてみた。

自分もそういう節があったので、猶の事敏感に察知してしまうのだが、時折すごく注目を集めるのが大好きな子供がいる

 

「してはいけないこと」をワザと行い、周りの注目(主に笑い)を一身に集め、面白がるタイプ。それ自体は微笑ましいが、和を乱すという意味では手放しの容認は無理だ。

 

僕はこれをクレヨンしんちゃんしんのすけ」のようだと捉えている。そしてこのタイプは、単に問題行動を行ってしまうタイプとは、また別の厄介な点がある。

www.tv-asahi.co.jp

 

それは、指導をすること自体がその子の報酬になってしまうという点だ。つまり、そういう謎の言動に反応し、注意をすると、その子の注目という目的が果たされるのだ。

 

これはこれで、また新たな知識や経験則を仕入れておかないといけない。そう思ったので、今日はそれを調べてまとめてみたことを、記事として書き残しておく。

 

 

その子が得たい目的をどう”いなす”か。


そう決めつけてかかるのも良くないことだとは思うが、「自分を見てほしい欲」がとても強いことは、いわゆるグレーゾーンの典型的な傾向なのだという。

desc-lab.com

 

一度大人になってしまえば、その立場になって考えるのも難しくなるのだが、その子が得たいものはつまり注目であり、そのための手段を一切気にしないというのが特徴だ。

 

例えば、大声で泣き叫べば、周りの大人が何をしていても、絶対に駆けつけてくれるだろう。この場合その子は、その行為で狙い通りの報酬を得たことになる。

 

それはその言動を補強する材料になり、気付けばその手ばかり使うようになる。ただしこの過程は、同級生の反応や大人からの指導を経て、自然と矯正されることが多い。

 

しかし中には、特性として、周囲が嫌がっていることや、今の自分の言動は好ましくないということが、理解し辛い子もいる。

 

或いは周囲の大人の反応が巡り巡ってその子に良くない影響を与え続けた結果、そういった言動をやめないこともあるという。

 

迷惑とされる行為を、それとわかってやったのに、狙った通りの反応が無かった。だからもっと露骨に、広範囲に、激しく迷惑なことをする。こんな風に。

 

胸糞悪いが、イジメが過激化する流れとそっくりである。だからこそ、理解しつつも、通る指導をきちんと入れることが、”お互い”を守ることに繋がると言えそうである。

 

その際にカギとなるのは何か。色んな専門家や保育士の方のコメントを読んでみたが、絶対に守らなければならないポイントは、以下の要素にまとまる。

 

① 叱るポイントを決める

② 正の注目はベタ褒めする

③ 負の注目は端的に叱る(反応は最小限にする)

④ 根拠を基に、行動を正していく(好ましい代替行動を指導する)

 

順番に補足する。まず①について。正直、昔の僕のような悪目立ちする子は、何度も何度も感情的なお叱りを食らっている

 

そしてそれについて、単なる八つ当たりなのか、それとも自分はマズいことをしたのか、実は怒られる側は結構察しが付くものなのである。

 

ちなみに本来叱るべきタイミングは、倫理的にダメなことをしたとか、自他に傷害を負わせ得る行為をしたとか、そのときくらいなのだという。

 

それ以外はスパッと”指摘”し、終わらせることが鍵だとあった。正直これを徹底するには、並大抵ならぬ器の大きさが求められるように感じる。

 

②と③は同時に解説する。正直、注目を集めたいという動機自体は、純粋に考えれば善も悪も無いものである。問題となるのは、どうやってそうするかという手段だ。

 

例えば勉強を頑張って、いい点を取って注目される。授業中に「う〇こ!」と叫んで注目される。結果は同じだが、後者は容認するわけにはいかないだろう。

 

この場合は長期戦だ。いわゆる好ましい方法で注目を集めようとしたら、ものすごく褒めればいい。逆の場合は、低い声で端的な指導を入れて、それで終わりだという。

 

その際の声掛けの一例として、結構怖いものもあった。面白いので、ついでに紹介しておく。

 

「頑張る〇〇くんは好きだけど、今のやり方をするのは嫌いだし嫌だな。何より悲しいかな。」

 

・・こんなことを言われれば、よほどのサイコパスでない限り、何か腹の底に込み上げてくるだろう。北風と太陽ではないが、烈火のような怒りより、強く刺さると思う。

 

そして最後の④は、これまた発達障害の生徒がいる際のクラス運営について説いた本にあったことだ。

 

そもそも問題行動を起こす生徒は、それしか方法を知らないことが多いそうなのだ。これは僕も想像が及ばず、初めて読んだときはなかなかに驚いた記憶がある。

 

例えば、「友達を殴ってはいけません」と言われれば、その子は別の日に、相手を蹴ったそうだ。「蹴ってもダメ」といわれたら、なんと唾を吐いたそうだ。

 

嫌なことをされたら、例えばその場から離れる、或いは言葉でその旨を伝えるなど、暴力に訴えない手段はいくつもある。それを”知らない”例は、かなりあるそうだ。

 

指導とは、「導く」という意味をも内包する。ダメとだけ言うのは簡単だが、ではどうしたらいいかをきちんと伝えてあげるのも、こちらの仕事なんだと思わされる。

 

・・とはいえその根っこに感じるのは、僕はどうしても愛への渇望だと思った。人から注目されたいのも、寂しさの裏返しだと解釈すれば、すごく納得する。

 

教員の仕事は、あらゆる意味で足りない部分を埋めてあげること、或いはその手伝いをすることではないかと、色々と考えさせられた。僕はただの塾講師なのだけれど。

 

ということで今日はこの辺で。

 

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村