僕は子供が嫌いだと自覚しているのだが、幸いなことに、攻撃性や敵意が露骨に向く対象では無いことも自覚している。
つまり、根っこから大好きになるのは厳しいにせよ、接し方や心構え次第では「平気」になる可能性が残っているという話だ。そう信じている。
では、僕が子供たちに優しくなれるためには、何が必要なのだろうか。今まで入れたことがない問いではあるが、こないだ観た以下の動画に、ヒントがあるように感じる。
コンテンツ自体もすごく学びになるのだが、ここで「なるほど!」と思ったのは、動画に登場する研究家の方のスタンスだ。
そのスタンスこそが、僕が彼ら彼女らに優しくなるために必要な要素だと思えてならない。今日は色々置いていっていることは前提として、急ぎ話を書いてみる。
感情の矛先ではなく、観察の対象として接する。
その研究者の人は、職業病なのかわからないが、すごく俯瞰的・客観的に、泣き止まない子供の様子を考えていることに気が付いた。
具体的には、「なんで泣くんだ!」とは捉えず、泣いている際に立てられる仮説に集中している感じだ。「この場合だと、お腹が空いたか何かですね」という風に。
仮にそれが正しいとするなら、それを補強する別の兆候が出ているはずだ。それを確認しよう。正しければさらに分析し、違っていたら他の説を自分で考えていく。
そうやってあくまでも【観察の対象】として接することで、ヘンに感情的にならず、またそれに付随するネガティブ思考にも意識を削がれず、その子と向き合える気がする。
そんな風に思ったので、早速今日やってくる正直手を焼く子への接し方を、意識的に変えてみた。続いてはその備忘録を書いておこう。
経験値と知識で徹底的に武装する。
仮説を立てるために必要なのは、各々に一家言あるだろうが、僕は何より「徹底したインプット」がそうだと考えている。
ただの知識と言われればそれまでだが、色々な人の経験則や、子供のメンタルについて研究した人のブログを読みまくり、ひたすら頭の中に叩き込んでいく。
すると、「あの子はこの事例に近いのではないか?」という引っ掛かりが頭に生まれることがある。この場合は大抵、同時にそれを確認するためには何が足りないかも閃く。
「間違えることに抵抗があるタイプなのでは?―じゃあ、✖を付ける前に指摘したらどうだろう?」
「単に注目を集めたいだけなのではないか?―では、低い声で1回だけ指摘したら、迷惑にならない程度に放置してみたらどうだろう?」
という風に。一度そうやって仮説を持っておくと、生徒への向き合い方がマジで変わったので驚いた。本当に観察対象として、割り引いて接することができたのだ。
感覚としては、手札が大量にある感じといったところだろうか。相手がどんな手でこようが、こちらには切れるカードがある。そう思っていると、すごく余裕が生まれる。
今日も間違えて悔しがり、モノを振り回して号泣しそうな子を、声掛けをしながら背中をさすり、トイレへさりげなく送り出すことで、未遂で食い止めることができた。
仮に号泣し始めたら、独りになれる部屋を用意し、そこで気が済むまで泣かせるつもりだった。どう来られても、僕の場にはカードが伏せてあるのだ。
知識と経験で徹底的に武装をすると、感情と感情のぶつかり合いではなく、さながら魔物に対して効果的な呪文を唱えるゲームのようなものに変化する。そう思った。
僕は世の中のお父さんお母さんを滅茶苦茶尊敬しているが、同じくらいに保育士・幼稚園の先生方も尊敬している。前者が無償の愛なら、後者はある意味究極のプロだと。
よく考えたら、その先生方は、子供たちが好きというそもそも論もあるが、大学なりなんなりで膨大な専門知識を学び、実習でそれを経験しているものである。
よくメンタルがやられないよなと本当にリスペクトしているが、それを支えるものの1つに、徹底した知識・経験での武装は在るのではないかと、すごく腑に落ちている。
僕は無償の愛でその子たちを包んであげることはできない。そこまでの傑物ではない。だから違う観点から、それを疑似再現するしかない。そしてそれは多分可能だ。
そのことを学べた1日であった。では今日はこの辺で。