最近、「近い」と思い始めている感情がある。それは不安と苛立ちだ。あまり類似性は無いように思えるが、僕はこの2つに共通点を覚えている。
聞こえだけなら正反対の感情と取ってもいいくらい、真逆の方向を向いているという人もいることだと思う。不安を臆病に、苛立ちを怒りに置き換えると、一見納得する。
ただ僕はどうしても、この2つは似ているどころか、実は同じなのではという疑問がぬぐえない。そう思い始めたのこそ最近だが、手応え自体はかなりある。
今日はその持論をカリカリと書いてみよう。
不安も苛立ちも、対象は同じ。
第6回 クリエイティブな仕事をするためには、怒りも不安も必要 | 日興フロッギー
↑まずはこの表を見てほしい。怒りや悲しみなどの感情が生じている際、無意識下でどこに注意が向いているかをまとめたものだ。
これを読むと、「不安➡未知のことに注意が向いている」「怒り≒苛立ち➡大切なものが脅かされていることに注意が向いている」とある。
ちなみに苛立ちとは、プルチックの感情の輪を見るとわかるのだが、”怒り”が1段階弱まったフェーズのものであり、ほぼ同質のものだ。
さて。僕は特に、不安という感情に襲われることが多い。その御し方にはずっと頭を抱えていたが、最近その観察を冷静に深めると、ある2つのことに気が付いた。
まず1つ目は、基本的に不安という感情は、起きてすぐと、手持無沙汰で暇なときに、頭にむくむくと立ち込めるというものだ。
家にいて寛ぎたいと意識では考えているのに、仕事をしないことがどんどん不安になっていく。それに負けて職場に行き、キーボードを叩いてしまう日も、まだある。
そして2つ目は、不安は苛立ちに変化しやすいというものだ。同じ対象に不安を感じていたはずが、いつの間にかそれが苛立ちにすり替わることは、結構多いと思う。
例えば、とある未回収の月謝を抱えているご家庭に対し、「払えてもらえないとどうしよう」という不安から、「払わんとかズボラすぎやろ」という苛立ちになるように。
冷静に振り返ると、苛立ち➡不安へと変化することも多い。はじめは攻撃性をもって相手に向き合っていたのに、いつかそれが不安の対象になっていることはままある。
不安から苛立ちへ。苛立ちから不安へ。このシフトは、”すり替わった”のではなく、実は同じものだと考えたら、どうか。主観的ではあるが、腹落ち感は強い。
砂浜に打ち寄せる波は、浜辺に飛沫を飛ばしたあと、海に向かって引いていく。しかしこれらはいずれも”波”であり、名前すら分けられていない現象である。
それと似たようなもので、未知の事柄に対してネガティブに反応すれば不安になり、攻撃性をもって反応すれば苛立ちになる。そんなところではないかと思えてならない。
不安を抱いている自分に苛立ちを覚えたり、苛立ちを覚えるばかりで前進しない状況に不安を覚えたり。この2つは潮の満ち引きのように絶えず変動する感情だとしたら。
不安も苛立ちも、僕に何を伝えたいのか、段々と輪郭がつかめてくる。言語化が間に合っていない、漠然とした未知の事柄。それが不安や苛立ちの正体なんだと思う。
そして実はもう一つ、不安・苛立ちの共通点として、実は気づいているけど言語化が追い付いていない部分がある。
最後にそれを書いて、この記事を結ぶこととしよう。
正体不明の幽霊のごとく。
不安や苛立ちを感じているとき、僕は意識的にそれを無視するように心がけてきた。ただし時間が空いた際、腰を据えてその不安としっかり向き合おうともしてきている。
だが、それが上手くいった試しは、ほとんどない。本当に不思議なのだが、「さぁ向き合うぞ」と思った瞬間、不安も苛立ちもスーッと引いていってしまうのだ。
視界の端で何ががこちらを挑発してくるのを認識しながら、そっちを向いた瞬間姿を隠すかのように。だからとても鬱陶しいし、時間差でまた頭を煩くしてくることもある。
同じ不安や苛立ちでも、無意識下では気づいている未完了の何かがあるのか、それとも実体のない杞憂なのか、それらはざっくり2種類あるように思うのだ。
前者であれば言葉にすることに難儀はしないのだが、だからこそ、そもそも不安や苛立ちを感じることの方が少ない。だが後者の場合は逆だ。本当に扱いが難しい。
向き合いたいのに、観察を始めたら消え去る不安。これらは本当は何を携えて、そこに幽霊のごとく浮いているというのだろう。
僕の思考の中でまだ味方にし切れていないもの。曖昧模糊としたものを対象とした不安や苛立ちとどう折り合いをつけるか。
その入り口にも立てていない気はするが、観察はこれからも続けたいと思う。では今日はこの辺で。