低学年の子供は、予測不能な言動をよくするし、その背景にある理由や動機も、大人からすれば理解が困難なものが多い。
目まぐるしく感情は変わり、時にはそれが爆発し、周囲に結構なインパクトを与えてしまうこともしばしばだ。社会性の発達にも個人差があり、本当にすごく、頭が痛い。
昔は、狭量な話だが、僕より適任な人がいることを言い訳にその人へ任せていた。そもそも何度も白状しているように、僕は子供が嫌いなのだ。
だが、マーフィーの法則かなんなのか、見えざる手が意地でも僕にそこへ携わらせようとしているかのような偶然の連続を感じている。
適任と思っていた人は病気になってしまい離脱したり、代わりにお願いした人は見ていてヒヤヒヤするほどの放任主義だったりで、もういけないと悟ったのだ。
以来がっぷり四つ、日々白髪を爆増させながら、自由奔放・天真爛漫な塊と接し続けている。世のお父さんお母さんを心底尊敬し始めたのも、この頃だ。
荒れた学校を立て直すドキュメンタリーの本にも書かれていたが、まさにガチンコ勝負だ。予測不可能な言動に対し、丁々発止の手を打ち続け、最後は笑顔で帰らせる。
そのためには、まずは何より手札が要る。カードゲームでデッキを組むためには、まずカードを集めなければ始まらないのと同じだ。
だから、そこまで空いてない時間をゴリゴリに投資して、僕は教員の方の心構えから幼児心理学まで、雑多にまとめてなんとか統合しようと四苦八苦である。
そんな日々を送る中で最近凄く強く感じつつあること。それがタイトルにも書いた、「低学年の指導は、観察力をステータスとしたガチンコ勝負」というものだ。
今日はそんなお話を書いてみよう。
相手が出したカードを見抜け!
つくづく思うのだが、低学年だろうが高学年だろうが、指導において必要な心構えは全く同じだ。それは将棋に近いとも言えるし、カードゲームに似ているとも言える。
違うのは、相手が持っている山札や戦略だ。だから相手の出方を知識や経験でパターン化し、仮説を立てて、その場その場で適する手を打っていく必要がある。
当然、高学年の子に効き目のある手を低学年に使っても仕方ないし、逆もまた同様だ。ある程度の分類と体系化は可能だが、それだけでなんとかなるほど甘くはない。
例えば「問題が解けないと癇癪を起こす」子がいたとして、その子にどんな手を打つかを決めるには、その背景を探るフェーズが必要となる。
単に勉強が嫌いというのなら、1問ずつに区切る。ワガママを言っているだけなら、迷惑を掛けない場所に連れて行って頭を冷やさせる。ASDなら、長期戦を覚悟する。
基本的には三手詰めくらいの構えでいるのが丁度いい。相手の現状に対して「大体どれかだろう」というケースを浮かべ、それを確定させるためにもう一手打つ感じだ。
その辺りの精度を磨き、心を落ち着かせ、適切な手を打つ確率を高めるというより、最悪手を打たなくなれるように必要な力とは何か。それこそ僕は、【観察力】だと思う。
その子の信念、価値観、家族構成、性格、特性等を情報として集めながら、時にそれら全てを意識的に手放し、ただ見守る・見つめる感じで日頃の様子を観察する。
その対象は時として、環境に及ぶこともある。例えばよく言われる話として、集中状態を維持するのが難しい子がいるクラスには、掲示物を貼らないというのがある。
視界の端に入る刺激すら集中の妨げになるというのがその理由だ。そして必要な手というのは、厄介でありながら面白いことに、僕とその子との関係性でも決まってくる。
僕のことを畏怖していれば、声掛けは変わる。僕に親しみを覚えていれば、また変わる。僕のことを毛嫌いしていたら、それはそれで打つ手がある。
僕とその子と環境と背景。その全てを広い視野で観察し、統合したり分解したりして、段々組織的にまとめていくこと。
本当にくらくらするほど、高く遠い目標だ。だが、同時に懐かしい感覚も思い出した。何かと思ったが、膨大なカードの山からデッキを作っていた子供の頃の記憶である。
教室に入る度に、デッキを携えてデュエルをするような感覚で臨む。それくらい子供っぽくて丁度いいのではないだろうか。相手もまた、同じ子供なのだ。
苦手という感想や、嫌いという感情は、何が突破口になるか分かりやしない。これもまた、その一つの例だと、僕は感じている。
では今日はこの辺で。