精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「掲示物」を改めて考える。

「ビジョナリー・カンパニー3」を読んで以来、言葉にできない緊張感をずっと抱えている。僕らは今、破滅の途上にいるに違いないという恐れが、日増しに高まっている。

 

企業としての死は、癌のような段階を経て進むとある。最終段階まで行くと、もはや末期がんのように、”如何に綺麗に仕舞にするか”を考えるしか、選択肢が残されない

 

そうなる前に食い止めて、一発逆転策の誘惑に打ち勝ち続けながら、着実にどん底を脱していかねばならない。僕が今果たすべき使命が、否が応でも浮き彫りとなった。

 

そのときすごく肝心だと思ったのが、【雰囲気】だ。この雰囲気とは一言でいうのが難しいが、組織全体を取り巻く緩やかな感情、という風に今回は考えたい。

 

気持ちが敗けると、最後の一歩に押し切られる。衰退から破滅の線を跨がせるのは、結局はメンタルのタフネスさという指摘は、真新しくは無いが、その通りだと思う。

 

では、いわゆるポジティブな雰囲気は、どうやって醸成すればいいのか?そのことを念頭に置きながら先行事例を色々調べたときに、一つ行き着いたアイデアがある。

 

今日はそれを、チラ裏に等しいが、殴り書きして忘れないようにしておく次第である。

 

 

 

アイテムで創る雰囲気。

 

この校舎はどうありたいか。何を推奨し、何を抑止したいか。その全ては、掲示物や置物で伝えることができると思う。

 

僕が尊敬する塾や、気付けば憧れているトレーニングジムなどは、何がそうさせているかは言語化が難しいが、雰囲気がバリバリに噛み合っている印象がある。

 

殺風景なオフィスに招き猫のでっかい像を置いたり、パーティー会場に学校の机を置いたりしたときに出てくる場違い感が、全く無い。

 

ここは静かな場所だ。ここは硬派にトレーニングを行う場所だ。雰囲気が全てを語っているし、雰囲気に全てを語らせるのが上手い人がそれを創ったことも、伝わってくる。

 

正直、掲示物は意外と作るのがめんどくさい。文言、アイデア掲示自体もそうだし、時期が来ればそれを剥がす必要があるのもまた面倒ではある。

 

だがそれを怠った結果が今なのだとすれば、これもまた点と点が線で繋がる衝撃を受けてしまう。アイテムこそが、雰囲気を創る。

 

もちろん中で働く人も大いに関係してくるが、そもそもの雰囲気との相互関係もあって、言葉遣いや振る舞いさえ変化するものだ。

 

今まで少し面倒くさがっていたことを少しだけ反省して、では自分の目指すものを達成するために、どんな掲示物を作ろうか、頭を使い始めようと思う。

 

確証バイアスを通じて、環境を観察する。

 

この目線を持って以来、確証バイアスだろうけど、コンビニに行くときもスーパーに行くときも、そのインテリアや掲示物に目が向くようになった。

 

そして一括りに装飾品といっても、「なるほど」と思う店もあれば、「なんかちぐはぐだなぁ」と思う店もあって、日々研究していて面白いなと感じている。

 

これら2つを分けるものは何なのだろうか。ここを言語化するところまでは、まだ観察が行き届いていないのだが、ひょっとしてそうではないか、と思う仮説は2つある。

 

1つは、単純な物量不足だ。僕は勝手に、どこを向いても3つ以上のアイテムが無いと雰囲気は出ていないという風に考えているが、そこまで的外れでもないだろう。

 

例えば英検・漢検・数検をプッシュしたいとして、その旨を発信する掲示物がどこを見ても3つ以上無い場合、そのメッセージは伝わってないと言える。

 

もう1つは、シンプルなミスマッチだ。もっと言えば、大勢の人がイメージするモデルから乖離したものが1つでもあると、急にちぐはぐ感が生まれていく。

 

学習塾という場をイメージすると、シンプルで、清潔感があり、観葉植物が置かれ、木でできた机と黒板が置かれていて、という風景を頭に思い浮かべる。

 

そこに象牙を置いたり、ポケモンのでっかいオブジェを置いたりすれば、一気に崩壊するだろう。雰囲気は創るより壊す方が簡単なのだ。趣味を優先させないようにしたい。

 

しっかりと物量を確保させながらも、雰囲気に合わないものを徹底的に排除するよう心がける。そこが全ての入り口だと感じている。

 

これからも掲示物については敏感になって、更に見識を深めていく次第である。では今日はこの辺で。

 

 

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