精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【英文読書ルーティン日記170】"PSYCHO LOGICAL"読書感想ブログⅥ ~鬱を紐解く、ただしありふれた観点以外から~

最近、五輪書を読み始めた。大学2年の頃に新訳版に一度挑んだが、その内容の深さに圧倒され、それきりになってしまっていたためだ。

 

しかし僕なりに観察に関する本をいくつも読み、日常生活でそれを心掛けて、何より飽きもせず数千もの記事を書いて言語化を練習した今なら、また結果は変わるだろう。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

そう思ったためだ。そして今、水の巻の冒頭を読んでいるが、ここに書かれていることが腑に落ちて読めている自分に気が付いた。何か既視感さえ感じている。

 

全ての道はどこか同じところへ通じているのだろうか。では、この本を通じて、脳に対する思索を突き詰めれば、僕はどこへ行けるのだろうか。

 

それを愉しみにしつつ、ニュートラルな心で読み進めたいと思う。

 

 

3月25日(月) 鬱とはなにか。

 

鬱とはなにか。これを詳細に観察することは難しく、しかも外から見れば、ただ怠けているだけにも見えるのが厄介だ。

 

そんな鬱だが、それによって当人、環境が負わされる経済的影響は相当な物があり、病欠に匹敵かそれ以上の問題となっている

 

筆者は元々ここの専門家であり、鬱に関しての研究を重ねていたからこそ、馬鹿げた神話の存在にも気づいているのだという。

 

誤った鬱の神話とはなにか。強く興味をそそられている。

 

3月26日(火) 鬱と定義する危うさ。

 

憂鬱という言葉は本当に取り扱いが難しい。なぜかというと、そもそも人生自体、好調不調の波が付き物だからだ。

 

好調から不調に転じた際、その最下点はただのバイオリズムなのか、精神の均衡が崩れて鬱に入っているのか。

 

局所的に見ていくと、全体像を取り違える。どこかネガティブな考えに埋もれがちなときこそ、対処策や別の可能性を考えて、全体を俯瞰したいところである。

 

3月27日(水) 鬱と定義する危うさ。

 

ただ落ち込んでいるだけなら、例えば身体を動かしたり、筋トレをしたり、派手に飲み歩いたりすれば、鬱々とした気分は割と容易く晴れるものだ。

 

だがそれこそ、極大なストレスなどによる病的な鬱であれば、そもそもそういうこと全てがご法度となる。

 

まずは何より体力の回復、これに尽きる。ひたすら寝ること。鬱の特効薬を強いて挙げるなら、これが一番だと感じる。

 

「あれが効いた!」「これが良かった!」というのはよくも悪くも雑多な意見であり、響きとして無責任なところもある

 

そこを取捨選択できれば良いのだが、気が塞ぎこんでいると、それもまたとても難しい。

 

鬱を取り巻く環境は、なんかフィットネス業界の昨今とよく似ている。そんなことを感じた。

 

3月28日(木) 「鬱らしさ」ってなんじゃ?

 

鬱にはなんとなく、テンプレなイメージがあると感じている。例えば「フリー画像 鬱」で検索すると、それっぽいのが色々出てくる。

 

曇天のもと、ある一室で女性がもの憂げに外を眺める。これが「鬱」についての共通認識なのだとしたら、なかなかに面白い。

 

現実は少し異なる。鬱々とした状態だと、まず部屋が散らかり、窓の側まで動くことさえ億劫になる。だから横たわったまま、動けなくなりがちだ。

 

また、鬱になったら鬱らしくしてなきゃならないという変な生真面目さに繋がることもありそうだ。

 

鬱なのに気晴らしにいくな!家でもの憂いを帯びてろ!という風に。暴論過ぎて言葉がでない。


外面で鬱を語るのは、実はとてつもなくナンセンス。自分で自分に酔わないよう、一層割引いて自分を見つめるようにしたい。

 

3月29日(金) 鬱とは、自分が自分に強いたムードの歪み。

 

鬱とはいわば、当人を取り巻く雰囲気における困難事を言う、と書かれていた。その具体例を読んで、すごく納得した。

 

例えばお葬式や卒業式など、厳粛で厳かな雰囲気を読み、むしろ悲しみや切なさに浸るべき場面がある。

 

そんなところで滑稽なことをしたり言ったりしようもんなら、とんでもない顰蹙を買ってしまうだろう。そしてこれ自体は悪でもなんでもない。

 

問題は、このような「悲しむべき、塞ぎ混むべき」という前提自体が、日常生活自体に強く適応されるようになることだ。

 

何をしても嬉しくも楽しくもない、というより、何をしてもそこに否定や不安の芽を探すようになる

 

鬱は雰囲気における不調というのは、すごく全体的でありながら、感情の本質を考えても、その通りだと感じる。

 

3月30日(土) 感情は、すぐに脳をジャックする。

 

感情は目先の出来事への反応として発生し、思考をすっ飛ばして目的の行動へ繋げるツールのようなものだ。

 

例えば「怒り」を覚えているときは、論理的に相手を攻撃しようなんて悠長なことは考えていないだろう。それは感情が、途中のプロセスを省略しているからだ。

 

そしてこの感情が、実際に起きている出来事から解離して、極端にネガティブかポジティブに振りきれるとき、そこには病名が付くこととなる。

 

感情は高揚の方で固定されても、それはそれで病的なのだという。これはトリップの典型だ。

 

感情自体は都度、何が湧いてきても、それ自体は悪ではない。囚われることが良くないというのが、適切な距離感なのだと、改めて思う。

 

3月31日(日) 鬱とは一つ一つが独立したドラマだ。

 

鬱になった経験の一つ一つは、オムニバス形式のドラマのように独立したもの、みたいな話があった。とても面白い観点だ。

 

僕は人生で少なくとも二回、本気で鬱レベルになったことがある。1つは高校二年の頃で、もう1つは社会人1年目のときだ。

 

後者は適応障害という診断を貰うに至っているが、この二つは確かに、一続きのシリーズという感じはしない

 

鬱が1つ治り、それが再発した際は、同じ物語の続編が出たというより、全くの新作が始まった、と捉える方が近いらしい。

 

鬱の治療とは、目先のストーリーを1つ終わらせること。【心をリセットする技術】に書いてある教えに似ていて、深い繋がりをここに感じている

 

では今週はこの辺で。

 

 

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