最近、支出がエグい。財布の底に穴でも空いているのかと思うほど、気付けばお金が無くなっている。
デカい買い物もあったので、ここ数ヶ月は「やむ無し」という大義名分で、いくばくか貯金を切り崩して凌いだのだが、それを補填せぬままここにきている。
ひろゆき氏も著書で触れていたが、生活水準は一度上げると落とせないという。これが本当にその通りだと、今物凄く納得している。
その理由はなかなかに難しいが、お金さえ少し払っておけば、大抵の選択や思考は大幅にカットできるから、ではないかと思う。
「魚が食いたい、でもサーモンのブロックはちょっと高いな、でもまぁいっか。」という風に。魚が食いたいだけなら、鯖缶でも十分なはずなのに、だ。
こういう風に、”無駄”に対して無頓着な姿勢は、確実に仕事にも悪影響を与えている気がすると、最近凄く恐れる気持ちが生じ続けている。
僕は贅沢に興味が無いはずなのだが、気付けば「ちょっといいもの」や「ラクなこと」に何も頭を使わず金を落としてしまっている気がする。これはもう恐怖だ。
だから【節約】について改めて意を決して取り組もうと思ったのだが・・・その過程で、すごく腑に落ちる発見というか、気付きを得られたのに驚いている。
今日はタイトルで全てバレているが、そんなお話である。
「節約」を改めて考える。
節約という言葉は、「ケチ」や「吝嗇」という言葉と混同されていると思う。払うべき金もケチり、自分のお金を徹底して守る守銭奴・銭ゲバという風に。
だがよく考えれば、そういったネガティブな意味合いは「ケチ」や「吝嗇」の意味合いそのものであり、わざわざそこに節約という類義語をもう一個作る必要はないと思う。
こういうときは辞書を引くに限る。するとやはり、そこにはネガティブな意味合いは全く隠れていなかった。
〘名〙 (形動) むだを省いて、切りつめること。また、そのさま。倹約。
ここで思い出すのが、お金持ちの人に共通する考え方だ。想像に難くないが、実はお金を持っている人ほど、その用途、額にはとても厳しい。
【最強の働き方】にも書いてあったが、たとえ富を持とうとも、納得できない支出は頑として許さないという共通点が、いわゆるミリオネアたちにはあるのだという。
だが、使うべきときを見失うということも無い。「ここぞ」というときには、莫大な額がボンと動くこともザラだ。
緩急自在というより、お金を使って何を何を交換するかというプロセス自体が、とてつもなく得意というものなのだろう。お金を使うプロが、金を握れるということか。
ところで、「ケチ」という言葉は、どう定義されているのだろうか。こちらの方が節約よりネガティブだし、だからこそ僕が知りたいのは、節約とケチを分ける部分だ。
それは、意外と簡単に見分けることができた。面白い語源を以下に紹介する。
「けち」とは「金銭や品物を惜しんで出さないこと」などの意味があり、「何事につけてもけちな人だ」のような使われ方がされる。
「けち」は漢字では「吝嗇」と書く場合もある。「けち」には多くの意味があり、「粗末なこと、価値がないこと、縁起の悪いこと、不吉なこと、難癖(なんくせ)、景気が悪いこと、みすぼらしいさま、手ぬかり」などの意味もある。
こう考えると、「ケチ」とは自分の利益を守るためにお金を使おうとしない人間であり、交換自体をしないという意味で、これまたお金の使い方が下手な部類だと言える。
節約かケチかを分かつのは、それによって他者に迷惑をかけているかいないかではないだろうか。得てしてケチが過ぎると、誰かに何かしらの迷惑をかけている。
例えばみんなで割り勘をして贈り物をするといった場面で、難癖をつけて意地でも参加しなければ、その人は文句なしの「ケチ」だと言える。
その人はお金を払わない代わりに、信頼や信用といった目に見えないけど大事なものを思い切り失っている。こう考えると、少し面白い真理が見えてくる。
浪費家はお金を無駄に使い過ぎる人だ。そしてケチな人は、信頼や信用を無駄に使い過ぎる人のことを指すのではないか。ここまで書いて、そう思い始めている。
つまりこれら2つは対極のことを言っているというより、自分が何に何をどれくらい払っているかに無頓着という意味では、同じような蔑みを込めた言葉なのではないか。
節約という言葉を考えながら、この点に至ったことを、素直に嬉しいと感じている。
ということで節約という言葉は今回、「費用対効果を極限まで高めるような手段を考え、それを実行し、また考えること」と定義しようと思う。
そう考えると、ある体現者が頭に浮かぶ。続いてはその人の哲学を基に、更に考えを深めていこう。
体現者の哲学に学ぶ。
節約と聞いて真っ先に思い浮かぶ人がいる。それはオードリーの春日氏だ。「ドケチ」で有名な彼だが、定義を考えるともはや「”節約の”プロ」だ。
奇天烈な節約術ばかりが取り沙汰されるきらいがあるが、僕はその根底に流れる哲学に強く感動した。せっかくなので紹介する。
そのものの価値に見合っていないお金を使いたくない
カッコイイ!なんと洒落た答えだろう!【大局観】にて羽生善治氏が書いていた感動と同じセリフが、僕の中にもポンと浮かんできた。
ということで、割と身近な例え話で、この言葉について僕が思うことを説明してみる。例えば急に、ハンバーグが食べたくなったとする。
モノによるが、レストランで食べれば、ライス付きで700~1000円くらいするのが相場じゃないかと思う。
しかしこれを、コンビニの弁当で済ませるとどうだろうか。近所のLawsonでは、ハンバーグ弁当を600円前後で販売していた。これだけでも、少し安くはなる。
だが、まだまだ攻められる。レトルトや冷凍のハンバーグを買ってきて、自分でお米を炊いて食べれば、更にコストは下げられるはずだ。400円も切るのではないか。
ここから下げようとすれば、例えば精肉コーナーのハンバーグの値下げ品を買ってきて、自分で調理するという手もある。
だがここから先は、”手間”というコストが関わってくる。どこまで妥協し、どこまで攻めるか、その線引きは個人個人で変わってくるだろう。
少なくとも僕は、わざわざフライパンで炒めるとなるとめんどくささが勝ってしまう気がする。実際ハンバーグは、火が通りにくいので手間がかかるのだ。
―ここで伝えたいことは、こうすれば安くなりますよ、という手垢だらけの提案ではない。1,000円要ると思っていた満足度は、実は4,00円で手に入るということだ。
僕はこの差額こそ、「価値に見合っていない投資による損失」だと思っている。そこをシビアに見極めて、代替案を常に探す姿勢。これが節約の真髄ではないか。
つまり、今自分が、この代金で得ようとしている満足度は、果たして適切なのかを常に問い、可能性を探し続けること。これを踏まえると、節約はとても自由研究に近い。
ここまで気付いて納得した今、僕は今日から早速、節約がしたくて仕方がない。ケチと節約は違う。僕は節約がもっと上手に、それこそ息をするようにそうしたい。
春日氏をこんな目線から捉え直す日が来るとは思わなかった。本当に面白く映る人は、その哲学が誰よりも深いことも一因なのかもしれない。
では今日はこの辺で。