2023年以降、僕の中でとても大きな勉強のテーマになっているのは、いわば「幼児の心理」だ。最初は実務的な理由から学んでいたが、今は興味の対象となっている。
子供の感情は目まぐるしく変化し、その発露はもはや「爆発」に等しいことがある。社会的に好ましいとされる行為を否定し、反発を繰り返す子もいる。
言うことを聞かないのが当たり前の子達をどう教育し、どう引率していくのか。正直、さっきも書いたが、最初は周りからのクレームが怖いからその術を探し続けた。
だが気付けば、それが純粋な”知りたい”に変わっているから不思議だ。コントロールしているという全能感が欲しいのではない。単に寄り添いたいと思えているのだ。
そして今日、その一環としてふと、海外のガイドラインには何が書かれているのか気になり、英検1級の有効活用ということで、事例をいくつか読んでみた。
今日は結構掻い摘んだ内容だが、そのまとめを書いてみる。では以下、本題だ。
【癇癪】を起こさせない心構え。
そもそも論、癇癪に特効薬はない。僕らだって感情が昂ることがあったら、それを瞬時にひっこめたり切り替えたりすることは無理だろう。それと同じだ。
だから大切なのは、起きる前に防ぐことであり、そのための術・心構えが一番充実して記載されていたくらいだ。
まず腰を据えて取り組むべきとされるアクションが2つある。1つは、感情の御し方の大切さと方法を繰り返し伝えること。もう1つはルーティンを作ることである。
集中ややる気は、段階を踏んで深まる。だからこそ、いきなり困難な課題や、普段と違う流れをあてがうと、その子にとって”不快な感情”が生じることとなる。
大人であれば理性で制御すればいいだけの話だが、子供にとっては「発露」以外の術がない。だから簡単に爆発へと繋がるのだ。
下準備の大事さとは、つまりシステム設計の丁寧さだ。ここは不十分だという自覚があるので、今一度しっかりと考え直し、修正する必要がある。
まず、スムーズに目の前の対象に集中・移行できるよう、流れをこちらから作ってあげて、感情自体をラベリングする言葉も丁寧に教えてあげる。
それと同時に、その子にとっての癇癪のトリガーはなんなのか、そして好きな物はなんなのかをしっかり把握・共有しておく。
教育は長期のチーム戦だ。そのことが改めて、突き付けられた気分である。
【癇癪】が始まってしまったら?
しかし癇癪をゼロにはできない。例えば家で兄弟とケンカしたとか、学校で嫌な目に遭ったとか、正直「知らねぇよ」という事情で機嫌が悪いまま来塾することはままある。
だから、「爆発したらどうするか」もしっかりと整える必要がある。ただしこの場合に打てる手は、日本語の本で書かれていた内容と全く同じだった。
周囲とその子の安全を確保し、落ち着くまで一人にしてあげること。(ただし監督役の人は側に置いておく)
これだけだ。ちなみに、その子の好きなものを把握しておくことの意義は、もちろん打ち解けるためもあるが、癇癪モードの解除に繋がることもあるから、である。
感情の発露で泣き叫ぶことより、好きなことの話をしたり聞いたりする方が得。そう判断されれば、あっさりとモードが解除されることもあるという。
そして癇癪時に気を付けるべきことは、あと2つある。1つは「Noと言わないこと」だ。「あとでね」「この問題が終わったらね」と工夫し、不機嫌を煽らないのが大事。
もう1つは、その子が得たい結果を”得させないこと”である。例えば癇癪を”起こせば”、嫌なこと(≒勉強)をしなくても済むと学習すれば、癇癪自体が常態化してしまう。
これらを判断し、言動に反映させるには、指導する側の頭が日頃からクールで無ければいけない。五輪書でいうところの、「心に偏りなき状態」である。
いささか無責任に聞こえるかもしれないが、目の前の子と僕には血の繋がりが無い。その事実を意識することもまた、客観的な状態にこちらが立ち戻れる一助になると思う。
【癇癪】が治まった後の話。
癇癪が治まったら一安心、というほど甘い話ではない。感情にきちんと折り合いを付けられるようになってもらうには、冷静に振り返り、次の策を考える時間は必須だ。
「今回は泣いちゃったね」という風に理解を示す。「間違えて悔しかった?」という風に質問を重ね、その子の真意に辿り着く。
「じゃあ次はどうしようか?」と一緒に答えを考えて、共感し、また見守る。教育や指導は、一発一発の声掛けではなく、包括的なケアのことを指すのだなと、改めて思う。
終わりに。:つまり必要なのは【愛】。
今回海外の例を調べていく中で、一番心に残ったのは、以下のフレーズだ。
Tantrum is their way of asking for help
(癇癪とは、その子たちなりの、助けを求める手段なのだ)
この言葉を読んだ瞬間、僕は猛烈に反省した。如何にこちらの事情というフィルターで、その子と向き合ってきてしまったか、ということに。
僕には慈悲的な意味で、愛が足りない。【観察力の鍛え方】にも書かれているが、よい観察を生むためには、【愛】が必要なのだ。
愛のためには固執は要らない。客観的に、冷静な観察ができているとき、それは愛を持って見守れていることと同義ということなんだと思うことにする。
ただ、僕はまだ知っただけだ。それを早速応用できるかは別問題である。僕は修行の途上というより、その”道”の入り口を、やっと探り当てたに過ぎない。
今日の出来事一つを取ってもそうだ。例えば、とある生徒が、「問題がたくさん見えると頭が爆発しそうになる」といって、問題用紙をとても細かく折っていた。
特性があると、情報量があっという間にキャパを超えるという。脳が無意識に情報を取捨選択する機能が弱く、全てを”大事なヤツ!”として認識するためだ。
その子は無意識にそれを踏まえた対策を採っていたことになる。それを知らなければ、「紙をぐしゃぐしゃにするな!」と立腹して終わりだったろう。
別の例だと、問題を間違えた後に急に不貞腐れ、イスの上で脱力したり、声掛けをしても「サンタさん~」と返すなど、全く僕と取り合ってくれない子がいた。
この言動の背景には何が隠れているのか。なるべく抽象的に言い換えて検索してみると、「恐れや恥への防衛機能として、ふざけ続ける」という例はあるとのことだった。
その子は間違えたことへの恥か、それを僕に指摘されることへの恐れに対処すべく、「ふざける」という蓑に隠れて、自分の心を守っていたのかもしれない。
となれば僕はその子にまだ信頼関係を抱いてもらってない、ということだ。そういえば僕は、その子の好きなものを1,2個しか挙げることができない。
一つの仮説がまた別の仮説を作り、それが勉強の原動力になる。このサイクルが正しい方向に回っている限り、僕は道を踏み外さず、成長できるはずだ。
だが同時に僕は、これを一緒に働く講師の方々に、どんどん手渡していく必要もあるということだ。僕一人がプレイヤーとして磨きをかける段階はもう終わっている。
何より僕一人が知見を独り占めするなんて、とてつもなくみみっちい。他の人のデータや関係性も観察の材料に取り入れれば、また違ったことが学べそうでもあるしな。
海外の事例を学ぶことで、ここに至れるとは思いもしなかった。だからこそ、勉強は面白いなと、そんなことを考えた。
では今日はこの辺で。
参考サイト