鬱の状態だった頃を思い返したり、或いはそうなっていた人の体験談を読んだりすると、あるイメージが頭に浮かぶ。
自分は決められた筋書きを演じるに過ぎず、しかもそのプロットは悲惨な結末にまっしぐらで向かっている。あらゆる環境も演者も、それに向けて力添えをするのだ、と。
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鬱とは強固なストーリーだ。そう説いているのはこの本だけではない。【心をリセットする技術】で、下園壮太氏もそんな話を書いていた。
僕は自分にどんな物語を課しているのだろうか。心が弱っているときに、それを冷静に問えるよう、今はしっかりとこの本を読み進めたいと思う。
- 4月1日(月) 鬱が変える世界。
- 4月2日(火) 鬱と環境。
- 4月3日(水) 鬱は投薬”だけ”で治るのか?
- 4月4日(木) なぜ鬱の投薬は最後まで行われないのか?
- 4月5日(金) 部分でジャッジせず、全体の影響を見る。
- 4月6日(土) 人生万事自由研究。
- 4月7日(日) 「かわるわよ」
4月1日(月) 鬱が変える世界。
鬱状態というと、僕は全ての思考がネガティブに染まることを意味する、そう考えていた。
だがどちらかと言えば、「妄想と現実の区別が付かなくなること」がその症状らしい。この考えは、実は仏教でもそう説かれている。
人は放っておくと、基本的にネガティブだ。不安に任せて、起きてもないことをあれこれ頭の中で用意する。
それ自体は準備や想定のはずなのだが、それを「起きるに違いない」と考えて、盲信するのが、鬱なのだ。
今、自分が考えていることは現実の問題か、はたまたただの妄想か。苦しいときに自分へ尋ねるべき問いが、また1つ得られた。
4月2日(火) 鬱と環境。
鬱とは現実と妄想、もっと言えば実情と杞憂の区別が付かない状態という指摘は、すごく奥深いと考えている。
実際、鬱には季節的な周期があると言われる。夏よりも冬の方が、鬱症状に苦しむ人が多い、という風に。
冬は日照時間も減り、生命の数も乏しくなり、活動量も減ってくるなど、どこか暗く、なんから終焉と紐付いた印象を受ける。
晴れよりも雨、昼よりも夜、人は鬱っぽくなると言われる。環境で気分はかくも容易く歪められるのだ。
逆に、環境によって好ましい方向に自分のメンタルを整えることは出来ないのだろうか。少し面白いアイデアが得られたと、ちょっとだけ嬉しく感じている。
4月3日(水) 鬱は投薬”だけ”で治るのか?
鬱を治すには、鬱を誘発する化学物質と逆のものを投与すればいい。このトレンドは、偶然の発見に基づいているそうだ。
別の病気の際に投与した薬によってメンタルの改善が見られた。それはなぜかと調べていくと、ある物質による働きだと仮説が立った。
実際にそれを投与すると、確かにメンタルの改善が見られた。おめでとう、これでめでたしめでたし、なのだろうか?
僕は、鬱症状は治ってからの方が、長い旅路になると感じている。根底にあるバグが治らなければ、そのうちまた必ず再発するからだ。
関節痛が治ってからも、そこに負担を掛けるような姿勢やフォームを続ける限り、必ずまた壊れるのと似ている。
鬱の治療とは、そこから距離を取ることに他ならない。近きにあるものを遠くにみるかのように俯瞰したら、そこから”始まる”のだ。
忘れがちなこの真理、しっかりと胸に刻みたいと思う。
4月4日(木) なぜ鬱の投薬は最後まで行われないのか?
投薬は鬱そのものを根治しうる術なのだから、もっと積極的に活用すべきだ。僕も似たことは思っていたのだが、今回の部分を読んで、その認識の甘さを知った。
例えばRPGの中盤以降だと、少しクセの強い防具やアクセサリーが手に入るようになる。
攻撃力が二倍になるが、防御と魔法防御が半分になる、みたいな。鬱における投薬は、これと似ている。
そう、副作用が激しいのだ。確かに症状自体は緩和されたとして、それ以外に悪影響が出まくるなら、それは治癒と呼べるのか?
どんなものにも別の側面はある。ゼロリスクなどあり得ない。やはりそうなんだと、改めて納得した。
4月5日(金) 部分でジャッジせず、全体の影響を見る。
僕は中学生の頃、腰の怪我を治療するため、接骨院に通っていたことがある。その際は気付かなかったが、その先生の施術には、一つ理に適った特徴があった。
腰を怪我していることは承知の上で、上半身・下半身の筋量バランスや骨盤の旋回具合などを何度も尋ねられたり確認したりした記憶がある。
今は、腰だけを取り出して治すことは不可能であり、他にも影響が出るのが当たり前だから、そこまで含めてケアしていたのだと納得している。
包括的ケアという言葉はわかるようでわからない言葉なのだが、この本を読みながら少しずつ、その概念が腹落ちしてきて、すごく嬉しく思えている。
4月6日(土) 人生万事自由研究。
一般的に効く薬が、あまり効かない人がいる。同時に、その逆を示す人もいる。これはなんでなのか、昔から不思議だった。
なんてことはない。確かに僕らは同じホモサピエンスかもしれないが、食べるものも育った環境も、遺伝子さえも、全てがバラバラだからだ。
前提がまず、かなり異なっている。大体に効くというデータは、つまりヒントとして使うのが関の山なのかもしれない。
だがそれでも、何もヒントも救いもない状況に投げ込まれるより何段もマシだ。既知のものを手掛かりにして、未知のものの存在を実感し、色々探して考えて試し続ける。
結局性根が子供の人の方が、こういうのに向いているのではないかと、また勝手に納得している。
4月7日(日) 「かわるわよ」
なにか知識を学べば、ものの見方が変わる。それによって反応や感情も変わることがある。
つまり脳とは、今現在も外的刺激に反応して変化する、とても柔軟な器官だといえるのだ。
このこと自体は知識として持っていた。だがなぜか、「考え方や感じ方は天性のもんだよね」と僕は変化もテコ入れも、どこか諦めていた。
嫌いなものを露骨に嫌悪せず、興味の無いものに面白さを見出だす。無責任な理想にしか聞こえないモデルだが、それは勉強と訓練で近づいていくことが可能なのだ。
後天的に獲得したものは全て変わる。そう思い至ったとき、すごく心が軽くなったのを実感した。
では今週はこの辺で。