あなたに不快な気持ちを生じさせるトリガーはなんだろうか。この質問をされて、即答できる人など、皆無ではないかと思う。
嫌な記憶や感情など、誰だって浸りたくない。だからなるだけ目を反らすし、別の没頭できる対象を見つけて気晴らしするのが効果的だとされている。
こんなことを書いている僕も、何が自分に不快な感情を引き起こさせるのか、そのトリガーを正確に把握しているわけではない。いくつか心当たりが浮かんでいるだけだ。
その一つは、いわゆるネット上の誹謗中傷である。これは言われた側の心中を想像して僕が辛くなる・・というより、コメント自体が痛々しくてしょうがないためだ。
今日もうっかりYouTubeか何かのアンチコメントを目にしてしまい、嫌な気持ちになっている。この人はなぜこうも、主観を絶対的な正解として発信できるのか、と。
そういうときは最近、似た悩みを吐露しているnoteを探して、ザッピングするようにしている。科学的な手法も良いが、もっとオーダーメイドな方法も知りたいからだ。
そして今日、「嫌な記憶(≒不快な感情のトリガー)」をただの「記憶」に格下げするための心構えについて、すごく面白い記事を見つけた。
その要旨をきちんと拾えているかは不安だが、急ぎその内容について、私見を書いてみたいと思う。
嫌な記憶はストーリーである。
嫌な記憶は、そもそもなぜ嫌なのか。禅問答みたいだが、正確には嫌な記憶が呼び戻してくるその当時の辛い思考・感情を、僕らは嫌だ、辛いと思うのではないか。
ここは嫌な記憶の本質を考えていくうえで、物凄く重要なヒントとなる。だからぜひ上記のnoteを熟読してほしいのだが、一旦僕の記憶を例に考えてみよう。
僕に不快な感情を想起させる思い出の内、本当にふとしたタイミングで蘇ってくるものの1つに、「友人に対して今思えば酷いことを言った」というものがある。
正直、それを口にしたときは、ことの重大さに気付けていなかった。だが何故か時間が流れた今になって、そのときの僕の軽率さと罪の重さが、どんどん強まり続けている。
嫌な記憶とは不思議なもので、その発言をした場所、天気、雰囲気などが全て統合されて、一つ一つが明瞭な記憶として上書きを繰り返されている気がする。
本来はあり得ないのだが、あのタイミングより、今の思い出しの方が、よっぽどはっきりと記憶として強いのではないかとさえ思えてくる。つまり、今の方が辛いのだ。
こういう風に、嫌な記憶が強化されていくのはなぜか。実は、ここに関して言えば、脳科学によってそこそこエビデンスのある理由が判明している。
それは、想起を通じて、復習を頻繁に繰り返しているからに他ならない。すなわち、脳が勝手に、超効果的な学習をしているのだ。
復習を繰り返すことで、記憶は強くなる。のみならず、似た別の記憶や感情を巻き込んでどんどん大きくなり、更にそれが復習によって頑強になっていく。
イメージは完全に塊魂だ。受験勉強であれば歓迎すべきサイクルだが、嫌な記憶だと話は別だ。なかなか癒えることがなく、むしろ増大していくのは、これが原因である。
この特性を踏まえて先のnoteで書かれていたのが、そうやって塊になって、一つ一つが不明瞭になったストーリーを、敢えて徹底的に分解していく、というものだ。
これは広義のアンラーンではないかと思うが、これは具体的にやってみた方が早いだろう。ということで引き続き、僕の嫌な記憶を分解して見つめ直してみようと思う。
記憶のアンラーンを図る。
記憶+感情=ストーリー。公式に落とせば明瞭だが、それを頭に浮かべるのは難しい。だが確かに、記憶と感情は本来別物だと思う。
例えば僕は、ただのデータの暗記という意味で、仕事柄教科書の記述や説明、生徒の趣味などをいくらか記憶している。だが別に、それを想起しても、感情は動かない。
「六波羅探題」という語句を頭に浮かべても、喜怒哀楽のどれも揺さぶられない。これは極端だが、記憶と感情が完全に分離している一例だろう。
だが中には、思い出しただけで感情に変化が生じる記憶もある。アッパレ戦国大合戦のエンディングとかは、想起するだけで涙が滲むほどだ。
これはもはや、記憶でも感情でもなく、ストーリーという別物だろう。雑な例だが、米+卵+鶏肉=親子丼、という関係性に似ている。
そしてストーリーは、時間を超越し、感情を揺さぶるほどの力を持つ。しかもそれは、先述のサイクルに乗って増大し、最後は巨大な塊として脳に仕舞われるのだ。
それを「親子丼=米+卵+鶏肉」のように、要素に分解して考え直すこと。ストーリーとして刻まれた記憶をアンラーンすること。まずは、これを目指してみたい。
先の話を例に取ろう。友達に軽率な発言をした”記憶”に、結びついている感情はなんなのか。後悔、自責、色んな言葉が頭に浮かぶ。
ところで後悔は、【悲しみ+自己嫌悪】の混合感情だとされる。自分のしたことが許せず、そこに傷つけたかもしれないという悲しみが乗っている感じだろうか。
となれば、さっきのストーリーが一つ小さいグループに分解できる。
友達に軽率な発言をしたというストーリー=友達に軽率な発言をした”記憶”+(悲しみ+自己嫌悪)
という風に。ここまで細かく、自分の嫌な記憶を観察したことはこれまで無かったと思う。だが今こうしてみると、「なーんだ」とすごく拍子抜けする気分だ。
ここで一つ仮説が立つ。何故か何か嫌な記憶が浮かんだ際、僕はそこに付随する感情のどれかを”今感じた(ている)”のではないか。
例えば、アンチコメントを見ると、嫌悪感を覚えるとさっき書いた。実際、そういうときに連想する記憶は大抵そこに、嫌悪感がくっついている。(しかも対象は大体自分)
本来は目の前のそれに目を向けた方がまだ建設的なのに、思い出の方が強力な記憶であるがため、いとも簡単に認識を歪められてしまう。
だが、このことさえ知っておけば、代わりに別の要素に集中することで、ここに囚われる時間を大幅に短縮できるように思う。
「なんか嫌な思い出が蘇ってきたなぁ、くっ付いている感情は多分アレかなぁ、じゃあ俺は今、何にそれを感じているってことかなぁ」という風に。
観点を得て、自問自答によってズラしていく。仏教の教えになんか近い気がするが、逆に言えばそこに近づいたということは、多分正しいということなのかな、と。
とりあえずもう、満腹なので終わりにしようっと。では今日はこの辺で。