誕生日を迎え、そろそろ30代に突っ込む年齢になった。
表面的なお祝いコメントは興味が無いのだが、生徒からプレゼントを貰うことがあると、柄にもなく泣きそうになる。
―僕はこのプレゼントという概念を、白状すると、あることのバロメーターにしている。それは、『俺、好かれてるぜうぴぴー』みたいな軽い話ではない。
俺の人生、ちゃんと『貸し』が多いかどうか?
これを確認するためである。
どういうことか?なぜこれを重視するのか?道徳の授業っぽいけど、実は今の世にも通じるこのテーマ、続きは以下に書いておきやす。
『ここ最近の時代を鋭く描写している!』といった帯コメントがある本を、最近選んでよく読んでいる。(ぶっちゃけ、よくて6割くらいしか理解できひんけど)
それらの本で繰り返し語れるのが、例えば『義理・人情』『信頼』『貯信』『貸し』といったフレーズである。
ビットコイン等の新しい通貨の登場で、『現金』の価値がこっそり激減しつつある今、上記のフレーズの言葉に欠ける人は、軒並み苦労しているのだとか。
これらはハッキリと『人気』とは別物であり、いわゆるテレビでもてはやされている人も、支援金を募れば大爆死するケースが後を絶たないそうだ。
一方、パブリックイメージとしては嫌われている人でも、支援を募ればすぐに同志が集まり、夢を語ればすぐに賛同者が集まる・・なーんて方も多い。
この違いはただ一つ。『義理・人情』『信頼』『貯信』『貸し』を大切にし、それを毀損するような言動の一切を徹底してしていないことだ。
美味しくない料理はおいしいという。オカシイと思ったことは言い返す。多分当事者には嫌われるが、それ以上にファンが増える。それが真理なのだという。
そして溜めたは、『義理・人情』『信頼』『貯信』『貸し』の活用法は、これ留まらない。
例えばクラウドファインディングでの募金や、直接のお返しという形で、別のモノに交換可能なのだ。
それができるようになったのが、今の時代の最たる特徴である。
―では、これらが自分に貯まっているか、どうやって知れば良いのか?主観とは惨めなもので、『俺はお節介焼きなんだ~』と自称する嫌われ者さえ、世にはいる。
そこで僕が使っているのが、『誕生日を言いふらす』というもの。たまたま歴史的事件の日と同じなので、ことあるごとに関連付けて言い倒すのだ。
生徒も『またかよww』みたいなノリになってくれば、後はドキドキの審判の日だ。
僕が生徒に何かしら渡せているモノ、もとい『貸し』があれば、何かの形でそれがその日に返ってくると、僕は感じている。
そして今年は―嬉しさで涙が出そうなくらい、多くのオヤツを頂いた。感謝しながら食べて、胸やけが激しい状態である。
・・・ここだけ切り出せば、単なる自慢だろうが、ところがどっこい。以下、その前後に行う、僕なりの努力を紹介しよう。
まず、別の講師の誕生日も生徒に伝え、授業日が重なっていれば、サプライズを提案することもある。
例えば、黒板にお祝いのメッセージ・イラストを、美術部のヤツに描いてもらうとか。人を喜ばせることに、生徒は嬉々として取り組むものだ。
また、ただの性格だが、旅行に行った際や帰省した際は、必ず生徒の人数分の土産を買う。(金がぶっ飛びすぎるので、大抵は30個入りのお菓子とかだけど)
そして、プレゼントのお返しも忘れない。なるだけ喜ばれるものを、喜ばれるタイミングで渡す工夫も欠かさない。
今考えているのは、夏季講習最終日の昼休みに、人数分のアイスである。労いともうひと踏ん張りを兼ねて、という感じ。
―昔はそれが過ぎて身体を壊しかけたが、僕はやはり利他主義的思考が強いらしい。ならば存分にそれを活用して、この世を生き抜こうと思うのだが、いかがだろう。
道徳の教材も良いけど、まずは小さな親切を重ねるところから、一歩一歩で良いのではないでしょうか。
では今日はこの辺で。