あることが気になって、現行の『教育制度』がどのような歴史を辿って完成したのか、ちょっと調べてみた。
それによれば、今のような”公学校を作り、そこに大人数を集めて同一のカリキュラムを教えていく”システムは、明治時代に生まれたものだという。
おりしもその時は『富国強兵』がスローガンの時代だったので、列強に追いつくべく、国民全員の教育水準を高めるという狙いはよくわかる。
―ただ、ここにもダークな話がある。最初はどうやら、積極的に外国人講師を招いて、農学などの実践的な内容を教えていくカリキュラムだったそうなのだが・・・。
その内、儒学の教えの色が非常に濃いものに変化していったのだという。たまたまではないと思うのだが、その時期はざっくり『軍』が力を持ち始めた頃にマッチする。
無遠慮に言えば、上の命令は絶対であるとか、そういうヤツ。(その名残は体育会系の部活動に見られますよね)
そして1947年の教育基本法制定を経ても、例えばサッカーで手を使うのがOKになるレベルの劇的な内容の変化は、特に起きないまま今まで来ているっぽい。
―よく考えれば、このことは色々致命的である。この73年間(というよりここ2~30年間)で、社会の状況は非常に目まぐるしく変化しているからだ。
膨大な種類の『価値観』が登場し、SNS等を通じて市民権を得ている昨今だ。一方、少数派に対するいじめなどは、無くなる気配すらない。
『個』が重視されるようになる世の中と、十把一絡げに『画一化』を目指す学校教育とは、当たり前だが非常に相性が悪い。そして世界的には、『前者』の力が強い。
それを踏まえてか、最近は『ルールの変更』が動きとして活発だが・・・それを全員に押し付けるという意味ではやはり変化がない。
だから僕はその内、学校って増える気しかしないのだ。今日はそんな話をウダウダと。
『画一化教育』の行く末。
日本には、小→中とか、中→高への飛び級制度は存在しない。高→大へのそれはあるが、オフィシャルな選択肢かどうかで言われれば微妙だ。
―この状況は、確実に『優等生』と『問題児』にカテゴライズされる層に、多大な不満を生む。
どちらもベクトルは違うが、自分がしたいことを押さえつけられている状態だからだ。先にどんどん進みたい生徒たちと、逆に一つのことに特化したい生徒たち。
その問題の質は、実は同じだ。だが、現行の制度では、先に行くことも、徹底して向いていないカリキュラムを放棄することも、絶対に許されない。
仮に『いじめ』のターゲットにされても、『頑張れ』という励ましが結局の解決策というケースも多い。どうしても逃がさないという怖すぎる執念を感じてしまう。
―そういう風に、教育制度はここ10年くらいで、急速に限界を迎え始めているのを僕は強く感じている。
そこに来て、さらにドカドカっと単元の追加が決定しているのだ。やれプログラミングだ、やれ英語四技能だ・・・血の気が引く。一方、削減された項目はほぼ聞かない。
なんかもう、全部できる人じゃない人が爆増する未来がミエミエだ。断言するが、学業で身を立てようと本気で思う人は減るに決まっている。
壁が高くなる一方、上った先の報酬の価値(≒学歴とか)は減っているのだ。東大生より面白い生配信主の方が、人も金も集める時代。褒美としての力は微妙である。
すると、どうなるか。今度はいっそ、分業化に対するニーズが高まり、そうせざるを得ない社会になるのではと、僕は考えている。
・・・嫌な言い方をするが、もうほとんどすべてのことにおいて、学校でしかできないことは無い。体育祭や文化祭など、”みんなで”することくらいではなかろうか。
逆に言えば、それ以外のことってアウトソーシングができるということである。わかり易いのは授業であり、これは何も『教員のみ』の仕事では無い。
僕はこの動きって、ぶっちゃけ活発化する気がする。もちろん、公務員という仕事は色々と法的に面倒なところもあるが、でもそれは止まらないかなと。
例えば、ゆくゆくは『教師』について、各学校が『契約』する形になるのではなかろうか。国語は1年間、○○という講師に依頼しよう、みたいな。
英語であれば、『外資系企業に勤めた○○さん』をも、指導者候補に出来れば面白そうである。(これは僕も受けたい)
部活動はあの人、カウンセリングはこの人みたいに、分業体制は画一化の限界と同時に起こり得る流れだ。
そしてその究極体は、自分がどういう勉強をしていくかさえも自由化した状態だと感じる。
東大に行きたいなら、それに特化した勉強を、そう誓ったときから始めていく。そして、色んな科目を学ぶことが性に合わないなら、早々にそれを捨てる。
数学が異様に得意だから、そこはひたすらに先へ進む。理科に強い興味があるから、特化してそれを深めていく。
―こういう風に、学校が行っている『管理』さえも、『個人の自由』になる。分業が行きつくのって、ここだよな、と。
そして合唱祭とか体育祭といった、集団で何かをする経験を積むというサービスについては、学校が提供する分業を採ればいい。
そんなワケで、『数百人の生徒を抱える巨大な学校』は、もう世の中の状況を掴み切れていない。
代わりに、『ニッチな小規模の学校』が増える流れが来そうだなと。つまり、もっと気軽に、生徒やご家庭が属する組織を選び、かつ変えることが可能になるという話だ。
英語はあの学校、数学はこの学校。なんか、そういう未来って、どうなんだろう。良いか悪いかを論じることすら、僕にはおこがましくてできんです。
ぶっちゃけ本当に独り言みたいな内容ではあったが、世の中の動きはこれからも注視していく次第である。
では今日はこの辺で。