「寄り添う」という言葉がある。例えば、「生徒一人一人の心に寄り添う」という風に使う言葉で、同時に指導者にとって必須のスキルや考え方だと思わされる。
・・そんな「寄り添う」という言葉だが、僕はどうにも、「偽善」のにおいを感じている。
「俺はお前のことをわかってる」とか言われたら、勝手なことを言いやがって、押しつけがましい・・とさえ思ってしまう。
理由は簡単で、とりあえず僕の経験として、僕のことをわかってると言った人は、大抵僕の感情を自分勝手に当て推量して、頓珍漢なことを早合点していたからである。
なのにその人は、周囲から見ればどこか人格者的な評価を得ていた。結果、「なるほど、言ったもん勝ちか。まぁ、俺は使わんとこ」と、いつの間にか誓うに至っている。
そんなわけで長いこと「寄り添う」なんて言葉を自分の中でNGワードにしていたのだが、最近この言葉ときちんと向き合う必要があるなと、実は感じている。
理由は簡単で、人生を賭けて勉強に取り組む生徒の様子を見ていると、喜怒哀楽、様々な感情に振り回される場面をよく見るからだ。
思春期ならではの衝突、現実との折衷、焦燥、不安、果ては人間関係に伴う不登校。それを「勝手にやれや」と突き放すのは、失格通り越してクズではないか、と。
とはいえ、自分勝手に「お前のことはわかってる」というのも、猛烈な抵抗がある。ゾワゾワする。思っても無いことを口には出せない。
―では改めて、本来、「寄り添う」とはどういうことなのか?人間関係についてのテーマなので、これについて思い巡らせた人は既にたくさんいることだろう。
その人たちの言葉を借りつつも、経験と混ぜながら、何か自分なりの解釈を掴みたい。今日はそういう記事である。
まずは語源の調査から。
調べてみて意外だったのだが、「寄り添う」の”本来”の意味は、極めて淡白にして、思っていたものと別物であった。
[動ワ五(ハ四)]もたれかかるように、そばへ寄る。「―・って歩く」
つまり「寄り添う」とは単に物理的な接触を意味しており、心という目に見えない部分に近付いていく感じは、ここに含まれていないようなのだ。ほう。
では、英語だとどう説明されているのだろうか。「寄り添う」という意味を持つ英単語を調べると、「cuddle」や「snuggle」が出てきた。
ただこれらはいずれも、「身体を優しく寄せること」という意味であり、やっぱりどうにも物理的な接触の意味合いが強かった。
・・・となれば、別に疑問が浮かぶ。僕らが現代において、「寄り添う」という言葉を使って表現したいことは、一体何なのだろうか?
少し例文から考えてみよう。「生徒の心に寄り添う」という文脈からは、物理的な接触はほぼ感じ取れない。(もしそうなら列記としたセクハラである)
どちらかと言えば「共感」や「同情」という意味合いを感じる。そしてそれは、以下のサイトを参照すると、おおむね間違っていないらしい。
ここだけ切り取れば素晴らしい言葉なのだが、実はこの記事を書いている間ずっと、「偽善だなぁ」という冷ややかな感想が脳内で反響し続けている。
なんというか、「俺自身も言葉にできていない感情を、簡単にわかったと言って勝手に合点しやがって」という苛立ちとでも言おうか、そういう反発がある。
寄り添うとは、他者の感情に共感・同情すること。しかし、本人が言語化できていない感情に寄り添うとは、一体どういうことなのだろうか?
ここのしこりが取れない限り、僕はこの言葉を生徒に掛けることは無理である。もっと色々な解釈が知りたい。
ということで続いては、共感や寄り添いについて、あれこれ調べた結果思うことを書いていく。
「寄り添う」ことは沈黙ではない。
調べていく中で、【共感】について、すごく自分の心に響くことが書かれたブログを発見した。その個所を引用してみる。
我々にできることは、相手の身になって相手の状況を共有し、できるだけ相手の視点に立って(立ったつもりになって)、相手の気持ちを想像することでしかない。
従ってそこには絶えず同情がまぎれ込んだり、理解のしそこないが生じたりする。
しかし、相手の視点に立って理解したと思っていることを相互に交換し、様々な視点を交換し合うことで、他者理解が深まり、それを通して自己理解も深まっていく。
更に自己理解の深まりを通して他者理解も一層深まることになる。
・・・単に相手の気持ちを考える”だけ”だと、それはある意味押しつけがましい当て推量だと僕は思ってしまうのだが、ここに書かれた文言からは、それを感じなかった。
それが何故かと考えた際に、更に腑に落ちることがあった。同情に無くて共感に在るものは、相手との相互のやり取りではないか。
自分で勝手に相手の気持ちに立って、勝手に相手の感情を憑依させて、勝手に怒ったり泣いたりすることは、共感ではなく主観的な同情に過ぎないのではないか。
つまり、本当の意味で「寄り添う」こととは、相手の想いを受け止めて、こちらの考えを伝える、そのやり取りが行われる時間のことを指すのではないか。
そんなことを矢継ぎ早に閃いた。
自分の意見を押し付けるだけなのは論外だが、話を聞くだけでも不十分。これら二つがバランスよく混ぜられて、初めて”寄り添える”のだと、今はすごく納得している。
・・・そういえば、この記事を書く前に、すごく心にズシンと刺さった話を読んだ。それがこちら。
ここに紹介された漫画の一幕もぜひ読んでみてほしいのだが、その際に添えられていた仮説に、すごく響くものを覚えた。
その場に一緒にいた他の経営者に、どんな工夫をしているか聞いてみた。彼も、組織作りに苦労していたからだ。そして、彼の仮説に僕はかなり納得した。
「視点、知識には共感できない。感情にだけ共感できる」
知識や技術は、自分の経験や見えている視野によって、価値が変わる。相手のためと思って伝えても、同じ経験や視野を共有していない受け手からすると、その価値は響かない。むしろ、ダメ出しをされているように感じて、距離を置いてしまう。
それよりも、目の前で起こっていることに対して、「自分は、どう感じているのか」と感情の共有からはじめてみる。相手の感情を理解して、それを踏まえて話すことが重要だと思っていたが、逆だ。自分の感情をまずは伝えてみる。それが寄り添うという行為なのだ。
寄り添うとは、一方的な行為ではない。お互いが、歩み寄らないと寄り添えない。一方的に相手に寄り添おうと近づくと相手は後ずさる。相手がまず、こちらに来れるように、先に感情をオープンにする。そして、相手が一歩近づくと、こちらも歩み寄る。
さっきまでウダウダ書いてきた話と、繋がりが見える。寄り添うことが目指すのは相互理解だが、その始まりは、自分の”感情”をはっきりと伝えてしまうこと。
この目線から、過去出会ってきた先生のことを考えると、気付くことがあった。感謝の気持ちとともに記憶に残っている先生たちは皆、僕に感情を語ってくれていた。
嬉しい、悔しい、心配だ、等々。本当にそう思っているかどうかは永遠に分からないが、何故か僕はその際、少しこちらから歩み寄ってみようかという意思を持った。
―すると、僕がコントロールできることで、今すぐ僕ができることが頭に浮かんできた。もっと自分の気持ちを表現する練習を積む、というものだ。
具体的には、感情を表す言葉に、今以上に敏感になること。自分の気持ちを、つぶさにキャッチすること。ここから”寄り添い”が始まっていくのではなかろうか。
相互理解のために動くべきは、まず自分から。じっくりと相手の話を聞くことが正義と思っていただけに、目から鱗な発見であった。
では今日はこの辺で。