精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「許せない」という感情は、実はとっても非合理的で超アホな思考らしい。

皆さんは粘着質だろうか。これだけ切り取ると病的な質問だが、僕は粘着質だと自分では考えている。なぜかというと、気持ちの切り替えが下手だからだ。

 

特に人の気になる行動を許すことが難しく、気が散る行動すべてに強い苛立ちを覚えて、さらにそのイメージが固定化され、それを崩すのが困難という癖を持っている。

 

その理由は何か。僕はガサゴソした音や、視界の端を行ったり来たりするような動きに意識がとても向きやすいという、HSS型HSPADHDかどちらかと思われる特性がある。

 

それこそ、視界の端でチョロチョロして、仕事中にも構わず話しかけてきて、モノを手にとってはゴソゴソと漁るという行動が凄くイライラしてしまうのだ。

 

そのとき僕のメンタルは、「許せない」という負の感情に支配されている。これと折り合いがつけられていないからこそ、僕は父親になるのに向いていないのだが・・。

 

さて。ぶっちゃけ、オトナ相手ならまだしも、年端もない小中学生の多動や衝動に苛立つのは、本当に器が小さいと思う。ほとほと、我ながら情けないとさえ感じる。

 

僕はもっと大らかに、「まぁいいじゃない」というのを体現するような生き方がしたいのだ。もっと上手に二の矢を受けない方法を、なんとかして知りたい。

 

こんな風に御せぬ感情があるとき、そもそも僕はそれに関する解像度が物凄く低いことがほとんどである。だからまずは、不安をモチベにそれを知る必要があるだろう。

 

てことで今日は、「許せない」という感情について、自分なりに調べたことをザックリとまとめてみようと思う。では以下、本題である。

 

 

「許せない」という強い感情は、何に当たるのか?

プルチックの感情の輪|人間の感情は色で分類すると関連性がわかる? - Web活用術。


「許せない」とは、どういう感情なのか。調べてみると、色々と奥の深い話が出てきたので、僕なりにその要点をまとめてみる。

 

まず、「許せない状態」を言い換えると、「自分は被害者だ」「相手が悪いんだ」といった、アドラー心理学にも精通する言葉に置き換えられる

 

いずれも極めて我に固執した状態であり、とても主観的で、そして認知が大変歪められている。これでは、冷静な思考を始めるのはどだい無理な話だ。

 

そこで仏教の考え方を調べると、ここの囚われの状態から自己を切り離す第一歩は、【寛容の気持ちを持つこと】とあった。その部分を引用する。

 

寛容さに関する仏教的なアプローチの鍵となるのは、有害で破壊的な行為や間違いと、自分であれ他人であれ、それを犯した人とを区別することです。

破壊的に行動してしまったり、間違いを犯してしまったりするのは、私たちが悪い人間だからではなく、言動に関する因果や現実について混乱していて、限られた理解しか持たないからだということを忘れてはなりません。

 

studybuddhism.com

 

いわば、行為と当人を同一視しないということだ。まさに罪を憎んで人を憎まずの境地であり、それは達観した結果ではなく、むしろ論理としては最初のステップなのだ。

 

これは自分事として考えると腑に落ちる。例えば僕がうっかり物を落として、ドンという騒音を立てたとしよう。

 

そこだけ切り取って、「自分の上の階に住んでいるヤツは、騒音だらけで迷惑じゃ!」と怒られたら、僕はそいつの頭が沸いてるなと感じてしまう。

 

これを考えても、アクションひとつで全体を判断し断罪するなんてのは、すごく愚かだとよくわかる。(そもそも断罪という考え自体が非常に高慢でおこがましい)

 

行為は行為、人は人。まずはここを意識的に分離することが寛容の始まりというのは、すごく腑に落ちる指摘である。

 

ということでまず、「許せない」とは、怒りなのか憎悪なのかはさておき、とりあえず強い感情に囚われている状態だと考えて間違いなさそうである。

 

ここでも使える【観察力】。


仏教の教えは、どこかスピリチュアルなにおいが薄いから好きだ。どちらかと言えば、非常に実践的な考え方だと思う。

 

なんなら、科学が近年突き止めた答えに、観察を通じて何百年も前に辿り着いていることさえある。だからその言葉は、すごく参考になる。

 

まず大切だったのは、許せないと思うことは一の矢であり、とりあえずそう思っている自分を自覚することだとあった。

 

その向き合い方こそが、何を隠そう【観察】である。自分の内面を深く見つめ、感情が乱れているさまを、ただただ見つめる。

 

【観察】を通じて、対象と距離を置く。目に見えない感情や自分の胸の内を、切り離す。【心の観察をじっくりと行う】ということだろうか。

 

そしてこの辺りを考える際にすごくはっとさせられたのが、引用の引用になってしまうが、この言葉である。

 

「よく人は、『あの人が許せない!』と言ったりしますが、【許せない】はありません。【許す】か【許さないか】は自分で決められることです。だから『あの人が許せない』ではなく、『私はあの人を許さないと決めている』というのが正しい表現です」と。

 

president.jp

 

これは本当に目から鱗であった。何か外圧的な、強制力のある影響によって無理矢理その選択をさせられているのではなく、自分で選び取っているのだ、と。

 

相手を許せないと思っているとき、僕らは無意識下で強く、その選択をし続けている。ただこれはあくまで選択であり、実はその矛先は変えられるのだ、と。

 

そしてその第一歩は、「自分を許すこと」とあった。ちょっと前に「許す」をテーマにした記事を書いたが、そこで書いたことと繋がりが生まれ、ひそかに興奮している。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

「許せない」と思ったら、そんな自分をまずは認めて、【寛容】の心をもって【観察】し、やがてその気持ちを相手の”行為”に向けてやるー。

 

これこそ受け流すという言葉の究極体ではないか。そう思った。もっと僕は、許せない僕の心の声を、拾ってやらないといけないのかもな。

 

ってことで今日はこの辺で。

 

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