精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【同業者向け】僕みたいな根暗の皆様へ。「陽キャ」についてのよくある”勘違い”と、「陽キャ2.0」についての自論を書いておく。

どんなビジネス書を読んでも、経営者のブログを読んでも、「理想的な社員」の条件は結構決まり切っている。

 

それは端的に言えば、「素直でいいヤツ」である。言い換えるなら陽キャというところか。

 

教えに対してオープンで、色んな報告を上げてくれて、しかも気が効くとか、そりゃあ上司からモテモテである。

 

一方、「こういうヤツは部下に要らない」という容赦ないモデルケースも結構共通しており、それは意外でもなんでもないのだが、いわゆる「根暗」である。

 

いつでも暗く、後ろ向きで、メンタルも弱く、場の空気をどんよりとさせる。なるほど、要らない。要るというヤツの方がどうかしている気さえする。

 

・・・だが、こういうのを聞くと、心臓をナイフで抉られるかのような苦しさを僕自身も抱く。はっきり言うが、僕もいわゆる根暗側だからだ。

 

確かにテンプレな根暗は組織に入れたくないっちゃないが、それについて「どの口がほざくのだ」と己の内のメタが刃物を突き立ててくるような感じといえる。

 

実際僕自身、かつては陽キャになりたくて色んな努力をしたものだ。思えば全て徒労であり、地の性格の頑強さを再確認しまくるだけに終わったのだが・・。

 

そんな悩みを持ち、似たような努力を重ねている同志は、きっと多いことだと思う。特に接客業においてはなおさらだろう。

 

だから書店には、「ポジティブに明るくなる!」という具合の煌びやかなタイトルの本が所狭しと並んでいる。

 

それらはいずれも、「今のお前は社会的に見て駄目だからね^^」というメタを発しているわけだが・・・。

 

・・・・・しかし、根暗側だという自覚や自負がある皆様。安心してほしい地の性格をぶっ壊して、チャラ男でパリピを目指す必要など、1mmもない

 

繰り返す。1mmも無い。というか大体の人は、陽キャの意味を履き違えていると、僕は考えている。

 

今日はそういう、影日向からの主張を、力尽きるまで書き殴ってみる。

 

 

陽キャ」はただの分人の1つに過ぎない。

 

まずは「陽キャ」の定義を再確認し、整理しておこうと思う。この言葉を辞書で引いてみたら、一応項目としては存在した。

 

《「陽気なキャラクター」の意》性格が明るく、人づきあいが得意で活発な人陽キャラ。⇔陰 (いん) キャ。

 

まぁ、文字通りの意味ですな。具体例でいうなら、お笑い芸人やアイドルといったところだろうか。身近にいる明るいヤツを想像してもいいだろう。

 

しかし、例えばお笑い芸人はカメラが回っているところではとても活発なのに、それが切れるとむしろ根暗というケースは、よく聞く話ではないだろうか。

 

ではこの場合、この人の”本当の性格”は、陽キャなのか、根暗なのか、どちらと捉えればいいのだろうか

 

ハッキリ言うが、僕自身は、そんな問いはまるで意味が無いと思っている。どちらもその人の一面であり、つまりそれ以上でもそれ以下でもないからである。

 

もっと言えば、社会的な分人が陽キャかどうかが、その人そのものの評価を、陽キャか根暗に分けていると僕は捉えている

 

・・・こういう書き方をすると、なんにも論は進んでいない気がするが、ところがどっこい。

 

陽キャも所詮は単なる分人の1つと考えるだけで、実は僕らにも、突然救いが出てくるのだ。曇天から光が差すかのような希望が、この考え方には隠れている。

 

ということで早速、ちょっと小躍りしながら、その話について書いてみよう。

 

断言するけど、誰にだって「陽キャ」な部分はあるよ。


僕の社会的な分人(不特定多数に見せる顔)は、正直「根暗」だ。基本的に説明も傾聴も、仕事じゃない限り面倒だと思うタイプである。

 

しかし、例えば生徒に対して発動している分人は、逆に「人見知りなんよね」というと驚かれるほど、明朗でおちゃらけた感じらしい

 

―何が言いたいかというと、冷静に考えればきっとどこかに、あなたの中にも陽キャの部分は存在するはずだということだ。

 

少し頭の中で思い起こしてみてほしい。例えば上司や先輩に対しては萎縮するとして、友達に対してはどうか。両親に対してはどうか。兄弟に対してはどうか。

 

クラスでは根暗なクラスタに属していても、同類と趣味について語り合うときは活発で元気なのではないか。それこそ、あなたの中にいる陽キャの部分だ

 

そういう局所的に明朗になる人を小馬鹿にする風潮はあるが、そういう人は何の優越感に浸りたいのかなと純粋に気になる。きっと実は満たされていないのだろう。

 

それはさておき、まずは自分が陽キャになっている関係性を築いている人や場所を思い浮かべて、今後そこと交流する際は、”じぶん”をよく観察してみると良い

 

抽象的な言い方になるが、その感じを少しずつ社会的な分人の方に移植していければ、ちょっとずつにはなるが、いずれ根暗を脱することは可能だと考えている。

 

まずは、誰と、どこにいるときに、自分の中の陽キャは出てくるのかを考える。そして今後は意識的に、その分人を観察する。

 

それが根暗を脱する、基本的にして最速な方法の始まりではないかと僕は考えている。

 

”だれを”朗らかにしているかをよく考えよう。

 

ここまで書いても、例えば明石家さんまさんや手越祐也さんを並べて、「底抜けの明るさが自分にないと、陽キャとは言えない・・・」と悩む人は多いと思う。

 

過去の僕も、恐らく上記の説明を聞いたところで、同じようなことを考えて同じような悩みを覚えたに違いない。まだまだ考え方をほぐす必要があるのは承知している。

 

ということでここからは、陽キャ」の解釈を少し変えてみるべく、自論をうだうだと書いてみようと思う。

 

そもそも、「陽キャ」とは何かというと、社会的な分人がめちゃくちゃ明るい人を皆様は想像すると思う。それ自体は間違っていない。

 

だが冷静に考えれば、社会的な分人がめちゃくちゃ明るいことは、無条件に皆にとって良いことなのだろうかということが、すごく気になってくる。

 

例えば僕は、自分が落ち込んでいるときとかに、横で底抜けに明るい笑い声を聞くと、めちゃくちゃ腹が立ってくる能天気な励ましもまた、イライラするだけだ。

 

また、物事を全く深く考えないタイプの陽キャも苦手だ。「大丈夫、ぜんぶ何とかなる!」という発言は、「俺は無責任!」ということの表明だとしか、正直思えない。

 

つまり、その人が個性として底抜けに明るくポジティブなのは、確かに陽キャではあるのだが、付き合っていてめんどくさいという側面もあるように思えてならないのだ。

 

それはお前が根暗だからだろと言われればそれまでだが、もうちょっと思慮深い点もどこかに内包しないと、単に子供を通り越してガキの思考回路といえないだろうか。

 

すなわち、大抵の人が考える「陽キャ」は、底抜けに明るい人を確かに指すが、もしかしたらそれだけの、底が浅い人という可能性も否めないということだ。

 

だからこそ、無理に地の性格をぶっ壊して、そういう方向を目指す必要は無いと、僕は考えている。(というか、無理だ)

 

―ではそんな僕は、どういう「陽キャ」なら良いと考えているのか。まだまだ仮説の段階なのだが、これについてもせっかくなのでシェアしておく。

 

佐渡島庸平氏の受け売りなのだが、ある言葉を深く学びたいと思ったときにまずやることは、その語句や漢字が持つ意味を調べてみることだ。

 

ということで「陽」という字を調べてみた。すると、こんな意味があるとわかった。

 

 易学で、陰に対置されて、積極的、能動的であるとされるもの。天・日・昼・男・強・動・奇数など。⇔
 表から目に見えるところ。うわべ。⇔。→陽に
 日の照らすこと。明るいこと。また、そのような所。
「静かなる夜を―に返す洋灯の笠に」〈漱石虞美人草

dictionary.goo.ne.jp

 

特に気になったのが、「明るいこと。また、そのような所。」という部分である。この部分をさらに考えていくと、ちょっと救いになることを閃いた

 

陽キャ」をぱっと頭に浮かべたときに、実は2種類あることに気が付いたのだ。順繰りに説明しよう。

 

1つ目は、当人が滅茶苦茶喋って盛り上げて、主役として場を沸かすタイプだ。ネタをするお笑い芸人とか、MCとして声を張り上げるアイドルの感じが、それに近い。

 

これも確かに、皆が頭に浮かべるテンプレの陽キャの1つだが、天性の才能とカリスマ性が求められるため、努力してどうこうできる問題ではない気がしている。

 

そしてこれから語る2つ目の方が、意外と盲点になっている定義であり、かつ後天的な努力で目指すとしたらこっちだなと、僕が半ば確信している「陽キャである。

 

それは、周りを明るくするタイプである。自分がガンガン前に出るのではなく、他の人を盛り上げたり、心を軽くしてあげたりする方に注力する方々だ。

 

話を振り、誘い水を出し、オチに誘導し、お互いに笑って終わる。心中を言葉にしながら聞いてあげて、時には共感したり同情したりする。

 

その人自身が無理してパリピ感を出さなくても、周りの人の心を軽く、明るくしてあげれば、正直色々と格上の陽キャとなるだろう。

 

具体例があんまり浮かんでこないのだが、自分の力で場を明るくするのも陽キャだが、周りを朗らかにして場を明るくするのもまた、陽キャだよなと独り言ちている。

 

そして何より、時間が経っても感謝の気持ちをもって思い出すのは、単に明るいだけの人ではなく、こちらを明るく”してくれた”人たちだ。

 

方法は大量にある。僕自身もまだ可能性という名の不安と自由を覚えまくっている段階だが、自分にできる陽キャを目指して、精進していく所存である。

 

陽キャ2.0」。一生掛かっても辿り着ける気がしない高みであるが、だからこそ面白いなと思う自分もどこかにいる。

 

では、今日はこの辺で。

 

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