精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

「知っていること」に大きな価値は無いが、無知はそもそも論外だ。

日頃から勉強を指導する側にいると、耳にタコができる、親子喧嘩のもとになるあのフレーズを、何十回と聞かされる。

 

「なんでこんな意味が無いことをせんといけんのん!!!」


―それについて、皆様は何と返されるだろうか。将来困るとかそういうことを説くだろうか。ただ、それで腑に落とせる子は、そもそも先述のような文句は言わない。

 

大人の都合・大人の観点でメリットを説いても、何一つ染み込んでいかない。このやり取りも、もう何回も経験し、重々承知している。

 

だから最近は、具体的にどうして意味が無いと感じるのか、それを一緒に言葉にしていくように話をしている。説得という観点をかなぐり捨て、ただ質問をして、聞く。

 

すると時折出てくるのが、いわゆる「知っていることに意味は無いってテレビで言ってた」という感じの発言だ。

 

一生懸命頭に教科書の内容を詰め込んでも、そんなのはスマホで検索すればすぐ出てくる時代なんだから、何の意味もない。そういうことなのだとしたら、確かに深い。

 

ではそれを踏まえて、どうするか。いいからやれと、押し付けるのか。実を言うと、話はもう少しだけ深めることが可能である。

 

今日はそういうことをつらつらと書いてみる。

 

 

「知ってる」から、なに?

 

改めて述べておくと、意味が無いのは、知ってるだけの状態で悦に入ることだ。「僕、物知りでしょ!」という自慢は、言っちゃ悪いが「だから何?」としか思わない。

 

とはいえ、色んな知識や考え方を頭に入れること自体は、非常に有意義で楽しいことだと、僕は考えている。大事なのは、それを使いこなそうという意識があるか無いかだ。

 

突然だが、なぜ勉強をしなければならないのかという質問について、最近は「自分で問いを立てられるようになるためではないか」と考えるようになっている。

 

色々な知識や考え方、分析の道具や歴史的背景を頭に入れておけば、自分が知らないことに対する感度が上がる。そこに問いを立てて、自ら勉強を重ねる。

 

僕がこの仕事を始めてから勉強が楽しいとずっと感じられているのは、この循環に上手いこと自分をずっと乗せられているからだと思っている。

 

知識を詰め込むことそれ自体は、受験や定期テストというステージを出てしまえば、あまり重要ではない。しかし、要はやはり、使い方だ。

 

あまりにも知識そのものが無いと、問いそのものを立てることが不可能になる。問いを立てられなければ、スマホで調べるもクソも無いのが現実である。

 

本当に知識量が閾値を超えた生徒は、色んな事象に対して問いを持てるようになる。そうなれば、ちょっと大袈裟だが、人生も豊かになっていくような印象がある。

 

色々なことを知ることは、この段階の入り口に当たる。それそのものは決して無意味なことではないと、僕は常々感じている。

 

「無知はそもそも論外」だと思うワケ。

 

偉そうなことを言っている感じがするが、「調べたら出てくるじゃん」といって基本的な勉強をサボる人は、ぶっちゃけ論外だなと、残念に思っている。

 

確かに堀江貴文氏を始めとする今を時めく人たちは、「スマホで調べれば出てくる」というフレーズを数多く残しているが、それは不勉強を肯定しているわけではない。

 

どちらかと言えば、図書館で本を借りたり質問したりというフェーズを飛ばして、一気に本質へたどり着けるんだから、ガンガン利用すべきという提案だと思う。

 

つまり、無駄な作業は削ったうえで勉強しろ、というのが言わんとするところではないか。決して「勉強しなくていいよ」という意味ではないだろう。

 

そもそも先頭を走る方々は、勉強量も膨大で、かつそれらによって得た問いや気づきを基にした試行錯誤の経験値量も、尋常ではない。

 

都合の良いセリフを都合の良いように曲解し、斜に構えた時点でつまり終わりなのだろうと、改めて思わされる。

 

まだまだ勉強を頑張ろうと思った。もちろん、楽しみながら、だけど。

 

では今日はこの辺で。

 

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